開するかという問題がある。
無声映画の時代にフィルムを単色に染めることによってあるいは月夜、あるいは火事場の気分を出したことがあった。その後有色写真のいろいろな方法が案出されて、「テクニカラー」式有色映画の示す程度までは進歩したが、その色彩はまだきわめて単調でなまなましくて、かろうじて安物の三色版の水準にしか達していない。それがためにかえって画面の明暗の調子を攪乱《かくらん》し減殺し、そうして過度の刺激によって目を疲らせるばかりであるから、現在のところでは芸術的には全く低級な単なるノヴェルティに過ぎないと言わなければならない。
視覚的映画に聴覚的な音響を付加することは本質的に異なる別の次元《ディメンション》を新たに増加することであるが、色彩の付加は単に視覚的なものの属性の補充に過ぎない。それだから、たとえば色彩再現の科学的技術がいかに発達したとしても、それがために発声映画がもたらしたほどの根本的な革命が起ころうとは思われない。
色彩はその使用が適切でなければ視覚的映像の効果を補充するよりもむしろ減殺するのは何ゆえかというと、色彩のために明暗の調子が弱められて画面の深さが浅くなり従
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