効果が生まれうるのは当然である。たとえば「アジアの嵐《あらし》」の最後の巻に現われる、嵐の描写のごときがそれである。
これに反して拙劣なるモンタージュは、動的な画像の単調無味なる堆積《たいせき》によってかえって観客のあくびを促すような静的なものを作り出すことも可能である。下手《へた》な剣劇の立ち回りがそれであろう。
エイゼンシュテインは、日本の文化のあらゆる諸要素がモンタージュ的であると論じ、日本の文字でさえも(?)、口と犬とを合わせて吠《ほ》えるというようにできあがっていると言い、また歌舞伎《かぶき》についても分解的演技の原理という言葉を使って、役者の頭や四肢《しし》の別々な演技がモンタージュ的に結合されるというふうに解釈した。この方法を応用したのが近ごろ封切りされた「人生案内」のコリカの母の死の場合だと言われている。
彼はまた短歌や俳諧《はいかい》を論じて「フレーセオロジーに置き換えられた象形文字」であると言い、二三の俳句の作例を引いてその構成がモンタージュ構成であると言っている。
私はかつて「思想」や「渋柿《しぶがき》」誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常
前へ
次へ
全59ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング