に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼はほんとうの連句については何事も知らないからであろう。

     映画と連句

 あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。
 いわゆる発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているものである。しかしたとえば歌仙式《かせんしき》連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その「細胞」である。もちろんその一つ一つはそれぞれ一つの絵である。しかし単にそれらの絵が並んでいるというだけでは連句の運動感は生じない。芭蕉《ばしょう》が「たとえば哥仙《かせん》は三十六歩なり、一歩もあとに帰る心なく、行くにしたがい、心の改まるはただ先へ行く心なればなり。」と言っている、その力学的な「歩み」は一句から次の句への移動の過程にのみ存する。
 その移動のモンタージュ的手法はすなわち付け句の付け方であっていわゆる、においとか響
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