う困難はすべて解決されたとして、あとに残る純粋な芸術上の問題が起こって来るのである。
 すぐにわかったことは、役者のダイアローグを聞かせようと思うと視覚的画面が静的になってしまって死んでしまう。それを避けるために隣室で立ち聞く人を映したりして単調を防ぐ必要が起こって来る。
 それよりも困ったことには国語の相違ということが有声映画の国際的普遍性を妨げる。無声映画を「聞」いていた観客は、有声になったために聾《つんぼ》になってしまった。
 この困難を避けるにはできるだけ言語を節約するという方針が生まれる、そうして字幕との妥協が講究される。
 言葉の節約によって始めて発見されたおもしろい事実は、発声映画によって始めて完全に「沈黙」が表現されうるということであった。無声映画ではただわずかに視覚的に暗示されるに過ぎなかった沈黙と静寂とが発声映画によってはじめて力強い実感として表現されるようになったのである。
 それと同時にまた一歩進んで適当な雑音の插入《そうにゅう》がいっそうこの沈黙の強度《インテンシティ》を強めることもわかって来た。一鳥の鳴き声で山がさらに幽静になるという昔の東洋詩人の発見した事が映画家によって新たにもう一度発見され応用されるようになった。舗道をあるくルンペンの靴音《くつおと》によって深更のパリの裏町のさびしさが描かれたり、林間の沼のみぎわに鳴く蛙《かえる》や虫の声が悲劇のあとのしじまを記載するような例がそれである。
 このような音のモンタージュは俳諧《はいかい》には普通である。有名な「古池やかわず飛び込む水の音」はもちろんであるが「灰汁桶《あくおけ》のしずくやみけりきりぎりす」「芭蕉《ばしょう》野分《のわき》して盥《たらい》に雨を聞く夜かな」「鉄砲の遠音に曇る卯月《うづき》かな」等枚挙すれば限りはない。
 すべての雑音はその発音体を暗示すると同時にまたその音の広がる空間を暗示する。不幸にして現在の録音機と発声マイクロフォンとはその機巧のいまだ不完全なために、あらゆる雑音の忠実な再現に成功していない。それで、盲者が、話し声の反響で室の広さを判断しうるような微妙な音色の差別を再現することはまだできないのであるが、それにもかかわらず適当な雑音の適当な插入が画面の空間の特性を強調する事は驚くべきものである。通り過ぎる汽車の音の強まり弱まり消え去ることによって平面的な
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