スクリーンはたちまち第三次元の空間を獲得して数平方メートルの舞台は数キロメートルの広さに拡張される。遠くから聞こえて来る太鼓の音に聞き耳をたてるヒロインの姿から、一隊の兵士の行進している長い市街のヴィスタが呼び出され描き出される。霧の甲板にひびく汽笛の音とその反響によってある港の夜の空間が忽然《こつぜん》として観客の頭の中に広がるのである。
音が空間を描き出すのは、音の伝播《でんぱ》が空間的であって光のごとく直線的でないためである。それがためにまたわれわれは音の来る角度を制限することができない。広い視野のうちから一定のわくによって限られた部分だけを切り取って映出するという光学的技法は音響の場合にもはや当てはめることができない。従って画面には写っていない人間や発音体の音が容赦なく侵入してくる。しかしこの音響伝播の特性を利用することによって発声映画は異常な能力を発揮することができるのである。たとえば探偵《たんてい》が容疑犯罪者と話しているおりから隣室から土人の女の歌が聞こえて来るのに気がついて耳をそばだてる。歌がやんで後にその女が現われるとすれば、そこに特殊なモンタージュ効果を生ずる。あるいは突然銃声が聞こえて窓ガラスに穴をあける、そこでカメラが回転《パン》して行って茂みに隠れた悪漢に到着するといったような、いわゆる非同時的《アシンクロナス》な音響配偶によっていろいろの効果が収め得らるるのである。「西部戦線」の最後の幕で、塹壕《ざんごう》のそばの焦土の上に羽を休めた一羽の蝶《ちょう》を捕えようとする可憐《かれん》なパウルの右手の大写しが現われる。たちまち、ピシンと鞭《むち》ではたくような銃声が響く。パウルの手は瞬時に痙攣《けいれん》する、そうして静かに静かに力が抜けて行くのである。
音と光との二つの世界のいろいろの差違がいろいろの形で発声映画に利用される、そのもう一つの顕著な目標はリズムの問題に係わっている。律動は本来時間的のものであって時間的に週期的な現象がわれわれ人間に生理的および心理的に内在する律動感に共鳴する現象である。空間的のリズムは、これから導出《デライヴ》された第二次的のものであって、目が空間を探り歩く運動によってはじめて時間的なリズムに翻訳されるのである。従って律動感の最も本質的なものは時間的に一元的な音響的音楽的律動である。律動的な音は子供でも野蛮
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