かりは言われないであろうと思われる。アメリカ人やドイツ人には到底理解されないものが東洋日本の大衆には理解され享楽されている例はいくらでもある。将来もしもここで言うような連句的な前衛映画が培養され発育しうる土地があるとすれば、それはおそらくわが日本のほかにはないであろうと思われる。そうしてそれはおそらくフランス人とロシア人にはいくぶんかは理解されるであろうと思われる。それにかかわらず現在においてこの方面を開拓しようとする運動の萌芽《ほうが》すらわが国のどこにも認められないのは残念なことである。
抽象映画
スウェーデンの一画家がはじめた抽象映画は、幾何学的形象の運動の連鎖であって「動く装飾」と言われている。これは聴覚に関する音楽から類推して視覚的音楽を作ろうという意図から起こったものであろうが、これはおそらく誤った類推による失敗であろうと思われる。耳は音自身を聞き、しかもこれを無意識に分析しうる特殊の能力をもっている。しかし目はその映像の中に総合された実体とその内容とを見るものであって、特別な訓練なしにはその中から線や面を分析し抽出するようにできていない。これだけの根本的な感官的性能の差違を考えただけでも抽象映画なるものの価値は理解されるであろう。それで絵画におけるキュービズムやフュチュリズムの運命が、おそらくはこの種の映画の行く末を見せてくれるであろう。
発声映画
無声映画がようやく発達して、演技や見世物の代弁の地位を脱却し、固有の領域を設定しかけたときに、突然発声映画の器械が市場に現われた。それがためにようやく「雄弁」になりかけた無声映画は突然「おし」にされてしまったのであった。
映画が物を言うというノヴェルティに対する好奇心はほんのわずかの間に消え去ってしまうとともにあらゆる困難が続出して来て、映画芸術は高い山から谷底へ顛落《てんらく》した。そうしてその第一歩からもう一ぺん新しく踏み出さなければならないことになってしまった。
まず第一に技術上の困難が起こる。たとえば雑音を防止するために従来のステュジオが役に立たなくなるとか、実際の雑音はまるで別物に変わるから適当な擬音を捜すとか、動き回る役者の声をどうして録音するかというようないろいろの問題が、単なる技術上だけの問題でなくて、映すべき素材の上に制限を及ぼすことになる。しかしそうい
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