ージュにおいてほとんど全く同一であるにかかわらず、全体としての形態において著しい相違のあるのは、いわゆる筋が通っているのと通っていないのとの区別である。多くの映画は一通りは論理的につながったストーリーの筋道をもっているのに、連句|歌仙《かせん》の三十六句はなんらそうした筋をもたないのである。しかも映画でもたとえば「ベルリン」のごときは全体としてなんらの物語を示さない。マン・レイの「海翻車《ひとで》」もなんらの事件を示さず、ただこの海産動物につながる連想の活動を刺激することによって「憧憬《どうけい》のかすみの中に浮揺する風景や、痛ましく取り止めのつかない、いろいろのエロチックな幻影や、片影しか認められないさまざまの形態の珍しい万華鏡《まんげきょう》の戯れやが、不合理な必然性に従って各自の中から生長する」(ボラージュ「映画の精神」一一五ページ)。
 しかしこれらの絶対映画では、ともかくも「ベルリン」とか「ひとで」とかいう主題によって全体が総括されている。しかしそれほど簡単でないものもある。「アンダルーシアの犬」と称する非現実映画(往来社版、映画脚本集第二巻)になるともはやそういう明白な主題はない。そのモンタージュは純然たる夢の編成法であり、しかもかなりによく夢の特性をつかんでいる。たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀《かみそり》を呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻《あり》の群れが、女の腋毛《わきげ》にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこの種の映画の構成原理は最も多く連句のそれに接近するものと言わなければならない。この比較は、現在あるものよりもさらにより多く連句的なる非現実映画の可能性を暗示する。通例はそう思われていないドブジェンコの「大地」などはまさしくその方向への第一歩であるに相違ない。

     前衛映画

 映画を演劇や文学から解放して映画的な映画の天地を開拓しようとして起こされたいろいろの運動の試みがいわゆる前衛映画である。「アヴァンギァルドとは金にならぬ映画を作る人たちの仲間を言う」と揶揄《やゆ》した人がある。従来のこれらの試みは、すべてただ実験室的の意義しかないが、そういう意義においては尊重すべきものであるというふうに解釈されている。しかしそうば
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