動かすことがあるのである。
 これから考えると、あらゆる忠実な記録というものが文学の世界で占める地位、またその意義というような事が次の問題になって来るのである。

     記録としての文学と科学

 史実というものは文学を離れては存在することが困難なように思われる。単なる年代表のようなものはとにかく、いわゆる史実が歴史家の手によって一応合理的な連鎖として記録される場合は結局その歴史家の「創作」と見るほかはない。「日本歴史」というものはどこにも存在しなくて、何某の「日本歴史」というものだけが存在するのである。ところが必要な鎖の輪が欠けているために実際は関係のよくわからぬ事件が、史家の推定や臆測《おくそく》で結びつけられる場合が多いであろう。それでいわゆる歴史と称するものは、ほんとうの意味での記録としてずいぶんたより少ないものと考えられるのである。事がらがごく最近に起こった場合でもその事がらの真相が伝えられることは存外むつかしいものである。たとえばマッキンレーが始めて大統領に選ばれたときに馬鈴薯《ばれいしょ》の値段が暴騰したので、ウィスコンシンの農夫らはそれをこの選挙の結果に帰した。しか
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