一歩一歩その探究の歩を進めて行った道筋の忠実な記録を読んで行くときの同学読者の心持ちは、自分で行きたくて、しかも一人では行きにくい所へ手を取ってぐんぐん引っぱって行かれるような気がするであろう。また理論的の論文のすぐれたものを読むときにもやはりそれと似かよった感じをすることがしばしばあるであろう。もっとも読者の頭の程度が著者の頭の程度の水準線よりはなはだしく低い場合には、その著作にはなんらの必然性も認められないであろうし、従ってなんらの妙味も味わわれずなんらの感激をも刺激されないであろう。しかしこれは文学的作品の場合についても同じことであって、アメリカの株屋に芭蕉《ばしょう》の俳諧《はいかい》がわからないのも同様であろう。
 科学的の作品すなわち論文でも、ほんとうにそれを批判しうる人は存外少数である。残りの大多数の人たちは、そういう少数の信用ある批判者の批判の結果だけをそのままに採用して、そうしてその論文のアブストラクトと帰結とだけを承認することになっている。芭蕉《ばしょう》の俳諧《はいかい》がわからなくても芭蕉の句のどの句がいい句であるという事を知り、またそれを引用し、また礼賛《らい
前へ 次へ
全55ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング