コの口から滴下する綺麗な宝石のような油滴を眺めているのは少しも暑いものではなかった。
夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。
夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた現われる。大きな蛾《が》がいくつとなくとんで来て垣根の烏瓜《からすうり》の花をせせる。やはり夜の神秘な感じは夏の夜に尽きるようである。
[#地から1字上げ](昭和五年七月『大阪朝日新聞』)
三 暑さの過去帳
少年時代に昆虫標本の採集をしたことがある。夏休みは標本採集の書きいれ時なので、毎日捕虫網を肩にして旧城跡の公園に出かけたものである。南国の炎天に蒸された樹林は「小さなうごめく生命」の無尽蔵であった。人のはいらないような茂みの中には美しいフェアリーや滑稽《こっけい》なゴブリンの一大王国があったのである。後年「夏夜の夢」を観たり「フォーヌの午後」を聞いたりするたびに自分は必ずこの南国の城山の茂みの中の昆虫の王国を想いだした。しかし暑いことも無類であった。
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