戸時代の大火の記録をその時代の地図と較べながら焼失区域図を作って過ごした。仕事はある意味では器械的であるが一つ一つの記録を読んで行くうちに昔の江戸の生活が、小説や歴史の書物で見るよりも遥かに如実《にょじつ》に窺《うかが》われて実に面白かった。昔の地図と今の電車線路入りの地図と較べているうちに色々のことを発見して独りで面白がることも出来た。
 今年はある目的があって、陸地測量部五万分一地形図を一枚一枚調べて河川の流路を青鉛筆で記入し、また山岳地方のいわゆる変形地を赤鉛筆で記入することをやっている。河の流れをたどって行く鉛筆の尖端が平野から次第に谿谷《けいこく》を遡上《さかのぼ》って行くに随って温泉にぶつかり滝に行当りしているうちに幽邃《ゆうすい》な自然の幻影がおのずから眼前に展開されて行く。谿谷の極まるところには峠があって、その向う側にはまた他の谿谷が始まる、それを次第にたどって行くといつの間にか思わぬ国の思わぬ里に出て行く。
 去年の夏は研究所で油の蒸餾《じょうりゅう》に関する実験をやった。ブンゼン燈のバリバリと音を立てて吹き付ける焔の輻射《ふくしゃ》をワイシャツの胸に受けながらフラス
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