ているのは周知の事実である。しかしこれは必ずしもこれらの記事を執筆する個々の記者の責めばかりには帰せられない。少なくもある点までは新聞の社会記事というもの自身に本質的に内在する元来無理な要求から来る自然の結果であるかもしれない。その上にかてて加えて往々記者の認識不足が不合理の上に不自然の上塗りをするのであろう。
 映画の場合においてもカメラを向け動かすものは人間であるから、そこに選択の自由があり従って人為的な公式定型の参加する余地は充分にある。しかしレンズとフィルムは物質であってなんらの既成概念もなければ抽象能力もない、一見ばか正直のようであって、しかも広大無辺の正確なる認識能力を所有しているのである。試みにたったひとこまの皮膜に写った形像を精細に言葉で記載しようとしてもおそらく千万言を費やしてもなおすべてを尽くすことは不可能であろう。写真影像は現象の記載ではなくて、現象そのものだからである。
 そのかわりに、あるいはそれだから、写真は事象の全体を系統的に把握《はあく》する能力をもっていない。それをするには撮影技師の分析的頭脳と、フィルムの断片を総合する編集者の総合的才能を必要とするの
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