の印銘をも受けないことであるに相違ない。しかし、よく考えてみると、某年某月某日某所で行なわれた某の銅像除幕式を他のある日ある場所で行なわれた他の除幕式と明白に弁別しようとするときに最も著しき目標となるものは何であるかというと、かえって上記のごとき零細|些末《さまつ》な現象が意外にも重大な役目をつとめることを発見して驚く場合があるであろう。こういう意味から言えば、新聞記事に現われた除幕式は純然たる概念的公式的の除幕式であって、甲のものと、乙のものとは人名などの活字面が少しちがうだけであって、どれもこれも具象的内容においては全く同じものである。それだから、記者が列席もしないのに列席したような顔をして書いても少しも不都合はない、午後に行なわれる儀式に関する原稿をその午前に書いて夕刊に出す。それで大臣がさしつかえができて出席しなくても記事にはちゃんと列席して式辞を読んだことになるのである。
新聞記事はこれに限らず、人殺しでも心中《しんじゅう》でも、皆一定の公式があって、簡単に無理やりにその型にはめ込んで書いてしまうから、どの事件も同じように不合理非常識な概念の化け物でこね上げられたものになっ
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