出来るであろう。「言葉」は始めから在る。それを掘り出すだけのことである。ニュートンがその一つの破片を掘り出し、フレネル、ホイゲンス等はもう一つの欠けらを掘り出した。それからそれといろいろの欠けらが掘り出されたが、欠けらと欠けらがしっくり合わなくて困っていた。どちらの欠けらも「間違い」ではなくて「真」の一片であった。近頃やっと二つの欠けらがどうやらうまく継ぎ合わされたようである。
すべての破片がことごとく揃ってそれが完全に接合される日がいつかは有限な未来に来るであろうと信ずるか、あるいはそれには無限大の時間を要すると思うかは任意である。しかしどちらを信ずるかでその科学者の科学観はだいぶちがう。孔子と老子のちがいくらいにはちがいそうである。
四
新しいもの好きの学者があるとする。新しいおもちゃを貰った子供が古い方を掃溜《はきだめ》に投込んでしまうように、新しい学説の前にはすべての古いものがみんな駄目になったように思う人が万一あるとしたら、それはもちろん間違いである。もっともそういう人はどこにもないであろうが、ともかくも古いものも新しいものもやはり破片である。今日の
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング