皺をよせ、血眼《ちまなこ》になって行手を見つめて駆けっているさまは餓えた熊鷹が小雀を追うようだと黒田が評した事がある。休日などにはよく縁側の日向《ひなた》で赤ん坊をすかしている。上衣を脱いでシャツばかりの胸に子供をシッカリ抱いて、おかしな声を出しながら狭い縁側を何遍でも行ったり来たりする。そんな時でも恐ろしく真面目で沈鬱で一心不乱になっているように見える。こちらの二階で話し声がしていても少しも目もくれず、根気よく同じような声を出して子供をゆすぶっている。しかし子供が可愛くてならぬという風でもない。ただ一心に何事かに凝り固まって世間の風が何処を吹くのも知る余裕がないといったようである。自分はこんな場合を見かけるとなんだか可笑《おか》しくもありまた気の毒な気がした。黒田はあれはこの世界に金を溜める以外何物もない憐れな男だと言っていた。五|厘《りん》だけ安いというので石油の缶を自転車にぶらさげ、下谷《したや》の方まで買いに出かけるという事であった。八百屋などが来ると自分で台所へ出かけてやかましく値切り小切りをする。大根を歯で喰い欠いてみてこれはいけないと云って突返したりする。煮焚きの事でも細
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