獅 itself." と書いた。
 一八九七年に王立研究所(Royal Institution)の自然科学教授になった。先任者ティンダルが病気でやめたその後を継いだのである。主な仕事は毎年復活祭の前の土曜の午後六回の講演をするのと、その外に一回金曜の晩専門的な研究結果の講演をするだけであった。講義には色々の実験をやって見せるのでその助手には例のゴルドンが任命された。ここの設備は極めて貧弱で、例えば標準抵抗一つさえなかった。午後の通俗講演の聴衆三百人ほどの中には専門家も居れば素人も居た。彼は一枚の紙片に書いた覚え書によって講演し、実験をやって見せる時にはちょっと手品師のような所作をして聴衆を喜ばせたりした。一八九九年このインスティテューションの創立百年記念式にはトーマス・ヤングの業績について講演した。レーリーが深くヤングに私淑していたであろうということは、二人の仕事の一体のやり口を比較すれば自ずから首肯されるであろう。レーリーの持っていたヤングの『自然科学講義』(一八〇七)は鉛筆でつけたしるしがいっぱいである。一九〇五年にこの椅子を去ったが、その後にも一九一〇年と一九一四年に金曜の講演をつとめた。

 ターリングにおける日常生活を紹介する。朝九時家族が集まって祈祷、寝坊して出ないものは睨《にら》まれた。それから朝飯まで書斎で書信の開封。朝飯中は手紙を読むか、さもなくば大抵黙っていたが、子供等には冗談を云ったり一緒に騒いだりした。朝飯後書斎で手紙の返事、十時に助手のゴルドン出勤、その日の仕事の打合せ、午前中は大抵読書か書きもの、Phil .Mag. か Ann. d. Ph. が来ると安楽椅子で約半時間それに目を通してから書棚へ入れる。書卓で実験の結果の計算、数式の計算または論文原稿執筆、途中で時々安楽椅子へ行って参考書を読んだり紙片へ鉛筆で何か書きながら黙想したり、天気のいい日は温室や庭を行ったり来たりして、午前中一、二度実験室をのぞいて何かと指図をする、昼飯前三十分くらい子供や孫に数学の教授、詰込主義でなくて子供等を自然に導くというやり方であった。昼飯時に午後のプランをきめた。例えば夫人と馬車でドライヴする相談、何時にどこへ行くというような事でも必ず先ず相手に意見を出させ、あとから自分の説を出すのが彼の流儀であった。食後新聞を一通り読む。新聞を熟読するのが彼の生涯の楽しみの一つであった。昼飯後コーヒーを出す習慣が始まった頃、どうもだんだん世の中が贅沢になって困ると云い云いコップを手にした。午後の散歩には農園を見巡る事もあった。豚とその習性に興味があった。夏は散歩の代りにローンテニスもやった。かなりうまかったが、五十歳後は止めてしまった。実験室で一、二時間仕事をしてからお茶になる。一杯の茶が有効な刺戟剤であった。仕事の難点が一杯の茶をのんでしまうとするすると解決するということも珍しくなかった。お茶の後、ことに冬季はよく子供達と遊んだ。ポンチの漫画を見せたり、また Engineering 誌の器械の図を見せたり、また「ロンドンを見せてやる」と称して子供に股覗《またのぞ》きをさせ、股の間から出した腕をつかまえて、ひっくら返す遊戯をした。しかし子供の不従順に対しては厳格であった。「子供を打擲《ちょうちゃく》するのはいやなものだ、あと一日気持が悪い」と云った。六時に実験室へ行って八時まで仕事。着物を更《か》えて晩餐、食後新聞、雑誌、小説など。トランプもやった。若いうち就寝前の一時間を実験室か書卓で費やしたが、晩年はやめた。そうして、十一時から十二時頃までは安楽椅子でうたた寝をしてから寝室へ行くという不思議な癖があった。
 煙草は生涯吸わず、匂いも嫌いであった。音楽は好きであったが深入りはしなかった。政治上の談論に興味があった。
 ターリングの家の来訪者名簿には、内外の一流の学者の名前の外に英国一流政治家の名前も見える。
 一八九二年にはソリスベリー卿の懇請でエセックス州の名誉知事(Lord Lieutenant)を引受けさせられた。一九〇一年ボーア戦争後、軍隊組織に関する新しい職責が加わったので辞職した。その時の辞表が一枚の紙片に鉛筆で書いたものであったので当局者は苦い顔をしたそうである。彼はその頃色鉛筆を愛用していた。
 一八九五年にはトリニティ・ハウス(海事協会)の学術顧問に聘《へい》せられた。かつてはファラデー、ティンダルの務めた職である。一八九七―一九一三年の間、しばしば所属のヨット、イレネ号に、国王や王子その他のいわゆる Elder Brethren と一緒に乗込んで燈台の検分をしたり、燈光や霧報(fog−signals)の試験をした。これには色や音に関する彼の知識が役に立ったのである。
 国民科学研究所(National Physical Laboratory)の設立が問題となって調査委員会が出来たときにレーリーが議長に選ばれ、いよいよ設立となったときには副委員長となった。研究所長にグレーズブルックが推挙されたのは、レーリーの考えから出たに相違ない。この創立に際して中心人物となるにはレーリーは最も適任であった。科学者の側からも信頼されると同時に政府側の有力者、また貴族の間に信用が厚かったからである。
 一九〇三年に「肝油事件」というのが起った。それは所長が知人から頼まれて肝油の分析をしてやった、その分析表が訴訟事件の証拠物件となり、分析業者や化学者の団体から抗議が出てだいぶ面倒な問題になったのである。これが動機となって研究所の存在理由に関する質問が議会に出たりしたが、これに対する答弁には同所で出版された論文集二巻が役に立った。その後もこの研究所の財政問題などで心を煩わすことが多かったようである。純粋な自由研究と政府の要求に応ずるような功利的研究との融和|塩梅《あんばい》も最も痛切な困難であったらしい。一九一九年彼の死ぬる少し前に辞表を出し、間もなくグレーズブルックも停年で退職した。

 一八九七年頃レーリーは自分の仕事が少しだれ気味になるのを自覚した。それで気を変えるために休暇の必要を感じた。一八九八年の初めにインドのプーナー(Poonah)で皆既日蝕《かいきにっしょく》が見られるというので思い立って十月末にコロンボ行の船に乗って出掛けた。インドでは到るところで歓迎されたが、それは貴族としてであって、彼を迎えた人達は彼の科学上の仕事などは全く知らないように見えた。彼はインド魔術を面白がり、夫人がいろいろの、彼から見ると無駄な買物をするのを気にしたりした。
 一九〇〇年軍務局で爆発物調査委員会が設置されたとき、レーリーが委員長に選ばれた。彼の好みにはあまり合わないこの仕事を、彼は愛国的感情から引受けたと云われている。無煙火薬の形を管状にする方が有利であるということを論じた論文が全集の第五巻に出ているのはこういう機縁に因るのである。
 一九〇一年には Chief Gas Examiner(ガス受給に関する監督局の長官)に任命され、ガス法規修正案の調査会の議長となり、また訴訟問題の判定に参与したりした。この職には死ぬまで停《とど》まっていたのである。
 一九〇一年にロンドンのチューブ地下鉄道が開設されたが、このために家が振動して困るという苦情が出たので、政府はそのために調査委員を設け、レーリーが委員長になった。色々実験の結果モーターの取付けに適当な弾条《ばね》をつけただけで、この問題は容易に解決された。

 青年時代に手をつけた「空の青色」に関する問題が、二十六年後の一八九九年に現われた論文で取扱われている。空気分子自身による光の分散によって青色が説明され、それから分子数が算定される事を示した。
 永い間レーリーの手足となって働いて来たジョージ・ゴルドンが一九〇四年の暮に病死した。それから一年ほどは助手なしであったが、子息すなわち現在のレーリー卿が休暇で帰っているときは父を助けてガラス吹きや金工をやっていた。一九〇五年に新しい助手 J. C. Enock を得たが、この人は一九〇八年にターリングを去った。
 一八七六年頃から音の方向知覚の問題に興味を感じていたが、一九〇六年に到って、両耳に来る波の位相の差がこの知覚に重要な因子であることをたしかめた。
 一八九九年に彼の全集の第一巻が出た。この巻頭に聖歌の一節 "The works of the Lord are great, ……" を刷るつもりであったが、出版所の秘書が云いにくそうに「これでは、ひょっとすると、Lord すなわち貴方《あなた》だと読者が思うかもしれませんが」と注意した。なるほどというのでこの句は別の句に移した。
 全集の終りの第六巻は彼の死んだ翌年に出た。論文の総数四六六である。彼の論文のスタイルはコンサイスで一種独特の風貌がある。数学的論文と純実験的論文とが併立しているのも目に立つ。彼はまた論文の終りに短い摘要を添えるのが嫌いであった。理由は、摘要だけ見たのでは実験の内容にはないものまでも責を負わされる虞《おそれ》があるというのであった。
 彼は自分でもしばしば言明したように、全く自分の楽しみのために学問をし研究をした。興味の向くままに六かしい数学的理論もやれば、甲虫の色を調べたり、コーヒー茶碗をガラス板の上に滑らせたりした。彼にはいわゆる専門はなかった。しかし何でも、手を着ければ端的に問題の要点に肉迫した。
 彼自身は楽しみにやっていても、学界はその効績を認めない訳には行かなかった。一九〇二年エドワード王が Order of Merit を設けた時に最初に選ばれた十二人の中にレーリーの名も入っていた。ケルヴィンやキチナー将軍や画家のワッツなども顔を並べていた。また一九〇四年にはノーベル賞を受けた。一九〇五年には王立協会の会長に選ばれたが、五年の期限が満たない三年後に辞任した。その理由は、長い海外旅行をしたいというのと、少し耳が遠くて困るというのと、外国語がよくしゃべれないので外国人との交渉に不便だというのであった。一九〇八年ケンブリッジで名誉総長デヴォンシャヤー公が死んで、その椅子がレーリーに廻って来た。就任式の仰々しい行列は彼にいささか滑稽に思われたようであった。見物人の群衆の中に交じった自分の息子を発見した時、眼をパチパチとさせて眼くばせをした。そういう心持を眼で伝えたのである。この時の記念としてレーリー賞の資金が集められた。彼はまた大学財政の窮乏を救うためにカーネギーを説いたり、タイムス紙を通して世間に訴えたりした。一九〇九年のダーウィン百年祭はレーリー総長の司会で行われたが、その時の彼の追懐演説に現われたダーウィンの風貌は興味が深いものであった。また一九一一年に出た版権法修正案が大学の権利を脅かすものであったので、総長レーリーは上院で反対演説をした。
 レーリーは前から南洋の島々を見たいという希望をもっていた。一九〇八―九年の冬の間に南アフリカへ遊びに来ないかという招待を、時の南アの長官セルボーン卿から受けたので、そのついでに南洋へも廻る気で出かけた。しかしケープからシドニーへの荒い旅路は遂に彼の南洋行を思い止まらせた。アフリカでキンバーレー、ヴィクトリア滝を見てプレトリアへの途上赤痢に罹り、その報知はロンドンを驚かせた。それからナタル、ザンジバールをも見舞った。アフリカ沿岸航海中に深海の水色について色々の観察をした。その結果を一九一〇年に発表したが、彼の説は後にラマン等の研究によって訂正された。この旅行の帰途ナポリでカプリの琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞《ろうかんどう》をも見物したのであった。
 南ア旅行から帰ったときは、病後のせいもあったが、あまり元気がなかった。もう仕事をする気力がなくなったのではないかという気がした。それでも帰るとから水の色に関する実験をぽつぽつ始めた。この頃から以後は全く実験助手なしであったから仕事は思わしく進まなかった。従って自然に数学的な方面の仕事に傾いて行った。彼は六十七歳になったが研究
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