が一々験算をした。レーリーはこういう計算はあまり得意でなかったのである。ホンブルクからハイデルベルクへ行ってクインケ(Quincke)を訪ねた。ク教授は新醸のワインを取出して能書きを並べた。スイス行を思い立ってムルレン(Murren)まで行ったら病気が再発して動けなくなった。四日目に少しよくなったので、四人|舁《がき》の椅子にのって山を下り一路ケンブリッジに帰った。それで次のクリスマスの休暇にはバス(Bath)に行って温泉療養をすることになった。浴槽の中で掌《てのひら》を拡げたまま動かすと指が振動する現象を面白がった。その時に浮んだ考えが三十年後の論文となっている(全集、五、p.315)。
 一八八四年カナダのモントリオルで大英学術協会が開かれたときにレーリーが会長に選ばれた。当時彼は四十二歳、こんなに若くて President になった例は珍しかった。彼は承諾はしたが、しかしその Presidential Address が苦になり、その予想にうなされ、そうしてひどく悄気《しょげ》たりした。アーサー・バルフォーアは手紙で彼を激励した。「科学と英国と貴族とを代表しなければならない」と云い、また眼前の政治的危機に対するカナダ新聞界の判断は、レーリーの印象によって左右されるだろうと云ったりした。クェベックまでの航海中のある夜ロバート・オースチンがナンセンス科学演説をやった。レーリーはたいそう感心し、また乗客のあるものがそれを本気に受取っているのを見て嬉しがっていた。
 いよいよ彼の座長演説をやる日に、入場券を持たずに会場へ行って門番と押し問答をやった。この時の演説の一部は科学者の教育問題に触れ、古典的死語に代えるべき仏独語の効能を述べている。また、科学はマテリアリズムに導く、という一般的|謬見《びゅうけん》を排し、計算や実験では解けない "higher mysteries of being" のあることを暗示した。この会のエキスペジションで彼はインディアンの国土を見舞い、シカゴで始めて電車を見、またマイケルソンやローランドと親しく言葉を交わし、またエジソンの有名な昼寝を驚かした。ケルヴィンの有名な Baltimore Lecture の一部にも顔を出した。これについてレーリーが後に息子にこんな話をした。「実にあの講義は驚くべき芸当だった。午前の講義を聞いていると、たった今、朝食のときに吾々の話していた問題がもう講義の種子になっているのを発見することがしばしばあった。」また母への手紙にもこの講義が「例のタムソン式で、つまり情熱的で、取り止めもなく声を出しながら考えるという行き方」であったと評している。
 カナダから帰るとすぐケンブリッジへ辞表を出した。在職五年間に出した論文の数は六十余あった。「あの調子で永くはとても続けられなかった」というのが後年の述懐であった。
 郷里ターリングに引上げてから、自分の研究室の準備にかかった。厩《うまや》の二階の物置を二つに仕切って一方を暗室とし、壁と天井を、煤《すす》とビールの混合物で塗った。この室の両窓にヘリオスタートを取付け、ここへ分光器その他の光学器械を据え付けた。片方の仕切りにはテプラーポンプや附属のマノメーターなどを置いた。後にアルゴンの発見されたのはこの室であった。感応コイルの第一次電路をピストルで切る実験もここで行われた。この室と煉瓦壁を隔てた一室が寝室であって、この隔壁に穴をあけて音響学実験の際に便利なようにした。実験室の階下が工場で、その隣室の「学校部屋」に棚を吊って薬品をならべた。ここで、液体運動の実験が行われ、また写真現像も出来た。彼の書斎は無頓着にいつでも取り散らされ、大きな机の上は本や論文でおおかた埋められてほんのわずかの面積だけが使われていた。机の片隅には彼が元服祝に貰った鳶色《とびいろ》の革函《かわばこ》が載っており、これに銭と大事な書類がしまってあった。右手の書架には学生中のノートブックがあり、ストークスの講義の筆記もその中にあった。自著『音響学』が一部、これは紙片にかいたノートがいっぱい這入《はい》っていた。彼が何かたいそう熱心に読んでいると思ったら大抵自分の書いたものだと云って家族達はよく笑った。室の照明は私設ガスタンクのガスによって、倹約と保守的な気分と面倒がりとのために電燈設備をしないでしまった。
 雑誌類は人に貸さなかった。ケルヴィンが Phil. Mag. を借りようとしたときも許さなかった。古い包紙やボール函や封筒なども棄てずに取っておいて使った。
 地下室の物置部屋へ行く隧道《トンネル》が著しい反響を示すことは彼の『音響学』に書いてある。この隧道の一端で、水面による干渉縞《かんしょうじま》の実験や、マイケルソン干渉計の実験が行われた。
 ターリングでやろうと計画していた研究の一つは、主要なガス元素の比重を精密に測定してブラウト方則を験しようというのであった。これは何でもないようでなかなかの大仕事であった。レーリーの手一つでは間に合わないので、ケンブリッジの助手前記のゴルドンを呼び寄せた。彼は家族を挙げてターリングの邸内に移り、死ぬまでここでレーリーの片腕となって働いた。村人は時々「旦那様の遊戯部屋」の「実験室」についてゴルドンに質問し "That ain't much good, is it?" などと云った。
 ガス比重測定は、一八四五年レニョー(Regnault)の発表したもの以来誰もやらなかった。レーリーはレニョーの実験における浮力の補正に誤りのあることに気付いたので、もう一度詳しくやり直す必要を感じたのである。
 地下室の中に作った天秤室《てんびんしつ》の空気を乾かすのに、毛布を使ったりしたところにレーリーの面目が現われている。二つのガラス球の容積の差を補正するために添えたU字管に、眼に見えぬくらいの亀裂があったのを気付かないでいたために不可解な故障が起って、ほとんど絶望しかけたとき、珍しい低気圧がやって来て、その時の異常な結果からやっとこの故障の原因が分ったというような挿話もあった。
 酸素対水素の比重に関する最初の論文を出したのは一八八八年で、つまりこの仕事をはじめてから三年の後である。その後のは一八八九年と一八九二年に出た。結果の比は一五・八八二であった。水素の純度について苦心していたとき、デュワー(Dewar)はスペクトル分析をすすめた。それに関するレーリーの手紙に「スペクトロスコピーの泥沼に踏込むことになっても困るが」と書いてある。
 この頃『大英百科全書』の第九版の編輯《へんしゅう》が進行していた。これにレーリーの「光学」と「光の波動論」が出ることになった。彼の原稿があまり専門的であった上に予定の頁数を超過するので編輯者の方から苦情が出た。そのために一部を割愛して後に "Aberration" と題して『ネーチュアー』誌に掲載した。後日彼は、あるアメリカの農夫が『百科全書』を買ってAからZまで通読しているという噂をして「私の波動論をどう片付けるか見ものだ」と云った。
 一八八四年にレーリーは王立協会の評議員をつとめたことがあった。その後当時の幹事ストークスが会長になることになったので後任幹事の席があき、それにレーリーが推挙された。色々の雑務をなるべく他の人にやらせるからという条件で彼を説き伏せた。主な仕事は論文の審査であった。彼は四十年前の審査員に握り潰されていた論文|反古《ほご》の中から J. J. Waterston という男の仕事を掘出し、それがガス論に関すジュール、クラウジウス、マクスウェルの仕事の先駆をなしていることを発見して、これを出版し、同時に隠れたこの著者の行衛《ゆくえ》を詮索したりした。この奇人は数年前行衛不明になっていた。
 協会の集会に列席する以外は大抵ターリングに居て書信で用を足した。そうして一八九六年まで十一年間この職をつとめた。協会幹事として彼はウィラード・ギブスの酬われざる貢献を認めこれを表彰したいと望んだが、化学方面の評議員が「あれは化学じゃない」と云って承知せず、ケルヴィン卿までも反対した。レーリーはこう云ってこぼした。「ケルヴィンは、自分の考えがいろいろあるからだろうが、それならそれで、ちゃんとそれを発表すべきだと思う。」しかしずっと後になって最高の栄誉と考えられるコプリー賞牌《しょうはい》が授与されることになったのである。それ以前にギブスがレーリーに送った手紙に「自分でもこの論文は長過ぎるのが難だと思う。しかしこれを書いたときは、自分のためにも読者のためにも、時間の価値など考えなかった」とある。
 王立協会幹事在職中に色盲検査法に関する調査委員会の委員長をつとめた。一方ではこの期間に彼は政治界の嵐に捲込まれ、郷里で演説をしたり、弟の立候補の声援運動を助けたりした。義兄弟のバルフォーア、当時のアイルランド政務総監がターリングへ遊びに来た時は護衛の警官が十二人もついて来たりした。スコットランドへ旅行して鳶色《とびいろ》をした泥炭地の河水の泡に興味を感じて色々実験をしたのもこの時代のことであった。
 家産の管理を引受けた弟のエドワードは始めは月給を貰っていたが、後には利益配当の方法によった。小麦が安くなったので、乳牛を飼い始め、一八八五年に十二頭だったのが一九一九年レーリーの死んだ年には八〇〇頭の牝牛と六十人の搾乳夫が居た。ロンドン中に八箇所の牛乳配達店をもっていた。王立美術協会の絵画展覧会に彼の肖像が出品された時に、観客の一人が「三四二号、ロード・レーリー、アー、あの牛乳屋か」と云っているのを聞いた友人があった。ある時は営業上の事で警察へ呼ばれたが、出頭しなかったので五ポンドの罰金を取られた。
 酸素と水素の比重を定めた次の仕事は当然窒素の比重を定めることであった。その結果がアルゴンの発見となったのは周知の事実である。空気から酸素と水素を除いて得たものと、 Vernon−Harcourt 法で得たものとのわずかな差違を見逃さなかったのが始まりである。彼はその結果を『ネーチュアー』誌に載せて化学者の批評と示教を乞うた。そうしてあらゆる方法で、あらゆる可能性を考慮して、周到な測定を繰返した後に、結局空気から得たあらゆる窒素と化学的に得られるあらゆる窒素とが、それぞれ一定のしかも異なる比重をもつという結果に到着した。その間に彼は、昔キャヴェンディッシが自分と同じ道をあるいていたことを知って驚いたりした。ラムゼーが同時に同じ目的の研究を進めていることが分ったが、喧嘩にはならないで、二人は手を携えて稀有ガス発見の途を進んで行った。「空気中の新元素アルゴン」と題する論文が王立協会で発表されたのは一八九五年の正月であった。これと一緒にこのガスの性質に関するオルツェウスキーとクルックスの論文も出た。同時に、この新元素に対する疑惑の眼も四方から光っていたために色々な不愉快も経験しなければならなかった。後年彼は「この仕事で得たものは愉快よりもむしろ苦痛の方が多かった」とつぶやいていた。しかし模範的に周到な注意によって築き上げた結果は、時の試練に堪えて、あらゆる懐疑者は泣寝入りとなった。アルゴンに次いで他の稀有ガスが発見された。今日我帝都の夜を飾るネオンサインを見る時に、吾々はレーリー卿の昔の辛苦を偲ぶ義務を感ずるであろう。
 一八九四―九六年に『音響学』の第二版が出た。これに増補された交流に関する章の一節は、十年ほど前に大英学術協会に提出したものであるが、その時どうした訳か出した論文原稿に著者の名が抜けていた。審査委員はつまらぬ人の寄稿だと思って危うくこの論文を落第させようとした。しかし著者の名が判ってから、早速及第ということになったのである。
 一八九五年に彼は再び心霊現象の実験に携わったが、やはり失望する外はなかった。この年の八月には Dieppe で疲労を休めた。その時母への手紙に "I suppose however that one's brain has a chance of recruiti
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