言明したことである。ヘルムホルツもまた出版者もこの『音響論』の第三巻を書くことを勧め、自分でもその気はあったが、遂に書かずに了った。しかし再版のときに色々な増補をした。

 レーリーの初期の研究の中で、かなり永い間の手しおにかけて育て上げたものの一つは、廻折格子の問題と分光器の分解能(resolving power)に関する問題とであった。初めは大きく画いた格子を写真で縮写しようと試みたがうまく行かなかった。しかしその研究の副産物としていわゆる zone plates(光を集中する円形格子)を得た。しかし、別に発表するほどの珍しいこととも思わなかったらしい。それから四年後にソレー(Solet)、七年後にウッド(R.W.Wood)がこれについて論じたので世に知られたが、レーリーのやったことは誰も知らない。
 当時の格子と云えばナベルト(Nabert)の作ったガラス製のものしかなかった。オングストレームの太陽スペクトルの図版もこれで取ったのであった。レーリーは縮写に失敗した後(一八七一)、このガラス格子を写真種板に直接に重ねて焼付けることを試みたらすぐ成効してたいそう嬉しがった。粒の粗《あら》い今のゼラチン乾板ではおそらく不成効であったであろうが、タンニン、蛋白、塩化コロジオンを使う古い方法が丁度適当であったのである。また重クローム酸ゼラチン法を用いて著しい結果を得た。そうして透明な棒の生ずる光波位相の反転に気付いた。この考えは後に発展して階段格子(〔e'chelon grating〕)となったのである。
 その後アメリカでローランド、マイケルソン、アンダーソン等によって優秀な金属製格子が作られ、またソープ、ウォーレス(Thorpe & Wallace)のセルロイド鋳型《いがた》などが出来て、レーリーの転写は実用にはならなくなった。しかしレーリーの貢献はこの研究から導かれた分光器の分解能に関する理論的研究であった。今から見れば誰でも気の付きそうなこの問題に当時まだ誰も気が付いていなかったのである。レーリーは五年かかってこの研究を完成し、格子のみならず、プリズムの場合をも補足した。これらの結果を纏めて Phil. Mag. に出したとき "I wonder how it will strike others. To me it now seems too obvious." と私信の中に書いている。これも一つのコロンバスの玉子であろう。
 一八七九年の十一月五日にマクスウェルが死んだので、ケンブリッジではキャヴェンディッシ講座の後任者が問題となった。ウィリアム・タムソンは到底引受ける見込がなかったので、人々の目指すところはレーリー卿であった。タムソンはレーリーに手紙を書いた。「自分は生涯グラスゴーを離れられない因縁がある。貴方が引受けてくれれば誠に喜ばしい。しかし教授の職に附帯したうるさい仕事のために研究が出来なくなるという心配があれば、また適当な後任者の出来るまで当分の間だけ引受けるというのだったら、むしろ御断りになる方がいいと思う」という意味のことを忠告した。万事控え目なストークスは一切黙っていた。
 当時レーリーの家の財政は前述のようにかなり困難な状態にあった。相続当時計画していたような大規模な研究室を作り、数人の有給助手をおくような望みは絶えてしまった。こういう環境の下にレーリーは遂に就任を承諾した。そうして一八七九年十二月十二日にこの名誉な椅子に就いた。
 当時のキャヴェンディッシ研究室はかなり貧弱なものであった。日常の費用はマクスウェルの小使銭から出るような始末であったので、レーリーは取敢えず研究資金の募集にかかった。先ず自分で五〇〇ポンド、当時の名誉総長デヴォンシャヤー公が五〇〇ポンド出した。その他の寄附を合計して一五〇〇ポンドを得た。また教授のポケットにはいる学生の授業料もこの方につぎ込むということにした。
 学生に一般的な初歩の実験を教えるという案を立てたが、その頃まだ学生用の器械などは市場になかった。幸いにジェームス・スチュアルト教授の器械工場の援助を得て、簡単で安いガルヴァなどを沢山作らせることが出来た。
 マクスウェルから引継いだ助手は、事務家ではあったがあまり役に立たなかった。それが間もなく死んだので後任者を募集したときに出て来たのがジョージ・ゴルドン(George Gordon)であった。もとリヴァプールの船工であっただけに、木工、金工に通じていたのみならず、暇さえあれば感応コイルを巻いたり、顕微鏡のプレパラートを作ったりするような男であった。田舎弁で饒舌《しゃべ》り立てるには少し弱ったが、しかし大変気に入って、これがとうとう終りまでレーリーの伴侶となったのである。レーリーの立派な仕事の楽屋にはこの忠実な田舎漢《でんしゃかん》のかくれていた事を記念したい。
 レーリーは器械が役に立ちさえすれば体裁などは構わなかった。それでゴルドンがいよいよ最後の「仕上げ」にかかる頃には、早速召し上げて行って使った。
 マクスウェル付きの demonstrator が辞任したあとへグレーズブルックとショー(R.T.Glazebrook & W. N. Shaw)が就任した。この二人の手を借りて学生の実験演習の系統的なコースを設立した。この、現在我国の大学でもやっているような規則正しいコースがケンブリッジに無かったのである。このコースを書物に纏めたのがすなわち Glazebrook & Shaw : Practical Physics である。感じ炎の実験などがあるところにレーリーの面影が出ている。
 レーリーの最初の講義は「物理器械使用法」で、次は「湿電気(galvanic electricity)と電磁気」であった。当時まだ galvanic electricity などという語が行われていたのである。聴講者はただの十六人であった。この数は彼の在職中あまり変化はなかった。当時の思い出を書いたシジウィック夫人(レーリー卿夫人の姉エリーノア)の記事に拠ると「彼が人々の研究を鼓舞し、また自分の仕事の援助者を得るに成効した所以《ゆえん》は、主に彼の温雅な人柄と、人の仕事に対する同情ある興味とであった」。彼はこの教授としての仕事を充分享楽しているよに見えた。「彼の特徴として、物を観るのに広い見地から全体を概観した。樹を見て森を見遁《みのが》すような心配は決してなかった。」「いつでも大きな方のはしっこ[#「はしっこ」に傍点](big end)をつかまえてかかった。」「手製の粗末な器械を愛したのも畢竟《ひっきょう》同じ行き方であった。無用のものは出来るだけなくして骨まで裸にすることを好んだ。」
 ナイルの河船でレーリーから数学を教わったエリーノア嬢は、その後シジウィック夫人となってからはケンブリッジに居を構えていた。そうしてレーリーの在職中は絶えず彼の研究の助手となって働くことを楽しみとしていた。することが綿密丹念で手綺麗で、面倒な計算をチェックしたり、実験の読取りを記帳し、また自分でも読取りをやった。レーリーの論文にこの婦人と共著になったものがいくつかある。
 就任当時は従来やりかけていた「水のジェットに対する電気の作用」などをやっていたが、そのうちに彼の頭の中では大規模の仕事の計画が熟しつつあった。すなわち電気単位の測定を決定的にやり直すことであった。先ず最初にオームの測定にかかった。一八六三―六四年にマクスウェルその他の委員によって設定された B. A. 単位はその後コールラウシュ、ローランド、ウェーバー等の測定で十二パーセントの開きを生じていたのである。この仕事にはアーサー・シュスターが加担し、シジウィック夫人も手伝った。B. A. の方法によって一八八一年に得た結果は、これと同時にグレーズブルックが他の方法でやったものとよく一致した。またこの結果が熱の器械的等量の電気的測定の結果と器械的測定の結果との齟齬《そご》を撤回したので、ジュールはたいそう喜んだ手紙をレーリーに寄せた。しかしレーリーはこれだけでは満足せずに、更にロレンツ(Lorenz)の方法によってやり直しをして、その結果を確かめた。結局三年かかって得た彼の結果は、その後多数の優秀な学者によって繰返された測定によっても事実上なんらの開きを生じなかった。
 次にはアンペーアの測定にかかった。この際クラーク電池の長所を認めていわゆるH型のものを工夫した。レーリーの定めたこの電池の e. m. f. の価もその後の時の試煉に堪えたのである。
 電気単位に関する国際的会議のいきさつはここには略するが、この問題に関してレーリーの仕事が重要な要石《かなめいし》となったことは明らかである。
 彼の指導を受けていたジェー・ジェー・タムソンが引続いて e. s. u. と e. m. u. との比を測定することにかかった。タムソンの仕事ぶりを見ていたレーリーは、"Thomson rather ran away with it." と云って一切をこの若者の手に任せてしまった。後進の能力を認めこれに信頼することの出来ない大御所的大家ではなかったのである。
 ケンブリッジ在職中の私生活も吾々にはなかなか興味がある。ここでもソリスベリーの別荘に住んでいた。講義のない日の午前はたいてい宅で仕事をしていた。昼飯の時には子息のためまた自分の稽古のために、なるべく仏語で話すことを主張した。それから二頭の小馬をつけた無蓋馬車をレーリー男爵夫人が自ら御して大学へ出勤し、そこで午後中、時には夜まで実験をやった。午後のお茶は実験室内の教授室で催され、夫人と姉のシジウィック夫人もしばしば列席した。茶瓶の口が欠けていたので夫人が新しいのと取換えようと云ったが、「これでも結構間に合う」と云って、そのままになった。夕食前の数分間には子供部屋をおとずれている彼を見かけた。一八八〇年七月には三番目の子息のジュリアンが生れた。その年の八月にはスコットランドに旅してアルジル公の客となり、ヨットに乗って「長湖」に浮んだり、公爵の子供の時に見たという狐火《きつねび》(will−o'−the−wisp)の話に興味をもったりした。
 一八八一年三月に Trinity の Honorary Fellow になった。マクスウェルの後を継いだのである。丁度ヘルムホルツも学位を受けに来合せて夫婦連れで二晩泊った。「ヘルムホルツは対話ではさっぱり要領を得なかったが、しかし彼は very fine head をもっている」と評した。
 一八八二年サザンプトンにおける大英学術協会では Section A の座長をつとめた。その時の座長の演説の中に物理学者の二つの流派、すなわち実験派と理論派との各自の偏見から来る無用の争いを誡《いまし》めた一節は、そのまま現代にもあてはまるべきものである。会のあとでプリモースへ行ってそこで始めて電話というものを実見した。そして何よりもその器械の簡単さに驚いた。「これは確かに驚くべき器械である。しかし大した実用にはなりそうもない」と云っているのは面白い。
 一八八二年十月に発熱性のリューマチスに罹って数週間出勤が出来なかった。丁度この時に王立協会から恩賜賞(Royal Medal)を貰ったが受取りに出ることが出来なかった。実験室ではグレーズブルックとショーが引受けていて時々病床へ何かの相談に来た。加減のいい時は小説『岩窟王』を読んでいた。二、三年後長子と散歩していたときにこの話をして聞かせた。そしてこの主人公の復讐はクリスチャンとしてはあまりひど過ぎると云った。
 病後の冬休みにはイタリアへ転地し、フロレンス近くのバルフォーア家の別荘に落着いた。ピサの傾塔やガリレーの振子よりも彼を喜ばせたものはその浸礼堂の円塔の不思議な反響の現象であった。
 この病気は時々再発の気味があったので、再び転養のためにホンブルク(Homburg)に行った。そこで毎午前はマクスウェルの色の図に対する面倒な対数表計算をやった。夫人
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