れが音響に関するレーリーの研究の序幕となったのである。彼が音響の問題に触れるようになった動機は、ある先生から是非ともドイツ語を稽古しろと勧められ、その稽古のためにヘルムホルツの Tonemspfindungen を読んだのが始まりだそうである。この最初の研究実験はターリングの邸宅の古いグランドピアノの上で行われたのである。
色の研究をしているうちに、空の色の影響に気が付き、それから、空の色そのものの研究に移り、ついに有名な λ−4[#「−4]は上付き小文字] の方則に到達した。そうしてクラウジウスやティンダルの説を永久に否定してしまった。
これより先、一八六九年にロンドンで彼の学友アーサー・バルフォーアの二人の姉妹エリーノア(Eleanor)とイヴリン(Evelyn)とに紹介され、その後しばしば出遭う機会があった。イヴリンは音楽を好んでいたので、レーリーはヘルムホルツの書物を貸してやり、それが二人に共通の興味ある話題を提供した。その頃彼はソルスベリー卿の実験室を訪れて磁気に関する実験を見せられたりした。その時母に送った手紙に「あんなに不器用では実験家として成効しそうもない」と云ってこの政治家の余技を評している。この頃またグラドストーンにも会った。そうしてこの大政治家の能力と独創的天分とに感服すると同時に、科学的考察力の欠乏を認めた。グラドストーンは雪が長靴の革を滲透する特殊な力があるということを主張した。レーリーは、それは靴の上部にかかった雪が靴の中へ落ち込むのだと云って説明したが、結局どうしても了解を得ることが出来なかった。
一八七一年の五月にイヴリン・バルフォーアと婚約し、七月十九日に結婚式を挙げた。大学における fellowship は未婚者のみに許されるという規則であったので、結婚と同時に大学との縁は切れることになった。これは「将《まさ》に来らんとする私の生活の転機の暗黒面だ」と云った。新婚旅行の途次にエディンバラの British Association に出席し、そこで始めてウィリアム・タムソンやテートと親しく言葉を交わした。旅行後ターリングに帰って秋と冬を送った。その間に彼等の新家庭を営むべき Tofts(Little Baddow における邸宅の名)の工事を監督するため毎週二、三度は新郎新婦|駒《こま》を並べて出かけて行った。
一八七二年正月ケント州の Bedgebury の親戚の宅で泊っているうちに劇烈な熱病(rheumatic fever)に罹り、一事は心許《こころもと》ない容態であった。関節と肺とを冒されたのであった。幸いに治癒したが、急に年を取ったように見えた。
Toftsの新居に実験室を造ろうと考えてマクスウェルの知慧を借りたりしたが、結局ここにはわずかに四箇月くらいしか居ないことになった。ここでは主に廻折格子《かいせつこうし》を写真で複製する実験をやったのである。後年この家の後継者はこの実験室を玉突き室に改造したそうである。
病後の冬の寒さを避けるためにエジプト旅行に出掛けた。夫人の姉エリーノアも同道した。その頃はまだ珍しかったスエズ運河を見、蜃気楼《しんきろう》に欺されたりして、カイロに着き、そこから小船に乗ってナイル河を遡《さかのぼ》った。南京虫《ナンキンむし》や蚤《のみ》蚊《か》に攻められながら、野羊《やぎ》の乳を飲み、アラビア人のコックの料理を食って、一八七二年の十二月十二日から翌年三月中旬にわたる単調な船住いをつづけた。この退屈な時間を利用して彼はその名著 Theory of Sound の草稿を書いていた。午前中は大抵キャビンに籠ってこの仕事に没頭していた。しかしすっかり戸口を締め切って蠅《はえ》を殺してしまってから仕事にかかる必要があったのである。義姉のエリーノアはレーリーの机の前に坐って彼から数学を教わっていた。どんな面白い見物があっても午前中はなかなか上陸しようとしなかった。午後にはデッキへ出てエジプトコーヒーをすすりながら、エジプトロギーをひやかしなどした。
帰途はギリシアからブリンデイシ、ヴェニスを経て一八七三年五月初旬にロンドンに着いた。そうしてアーサー・バルフォーアの近頃求めた No.4 Carlton Gardens に落着いた。これが晩年までも彼のロンドンでの定宿となり、ほとんど毎年数週ないし数月をここに送ることになったのである。
旅から帰った翌月、すなわち六月十四日に彼の父のレーリー卿が死んだ。これは彼にとって大きな悲しみであったのみならず、父の遺産の管理という新たな責任が彼の科学的生活の前途を妨げはしないかという心配があった。
一八七三年の秋に新しきレーリー卿となった彼はトフツの邸《やしき》から父祖の荘園ターリングに移った。それまでは石油ランプを使っていたのをガス燈にし、また実験用の吹管《すいかん》や何かに使用するために、新たに自家用のガス発生器を設備した。その他には客間にあったオルガンを書斎に移したくらいで、外には別に造作を加えるようなことはしなかった。晩年に到るまで、彼はこの旧宅に手を入れることは容易に承諾しなかった。そうして彼の幼時の思い出のかかっている家具の一つでも取除けることを許さなかった。
この年に彼は F. R. S. に選ばれた。そうして一八七四年から一八七九年までは平穏にターリングの邸で暮していた。一八七四年の夏頃始めていわゆる心霊現象(spiritualistic phenomena)の研究に興味をもつようになった。それはクルックス(W.Crookes)がこの方面の研究に熱心であったのに刺戟されたものらしい。彼は、もしこれらの現象が本当であれば、それはあらゆる他の科学的の発見よりも遥かに重要であると考えたのであった。しかし色々の実験に立合ったりした結果は彼を失望させた。もしそうでなかったら、彼はおそらく生涯をこの方面の研究に捧げたかもしれないということである。しかし彼が最後までこの方面の興味を捨て切れなかったことは、彼の死んだ年一九一九年に心霊現象研究会の Presidential Address をやっているのを見ても分るであろう。何事も容易に信じない代りに、また疑わしいものでも容易には否定しないのが彼の特長であった。
一八七五年に上院で演説をさせられた。それは衛生問題に関することであったが、云いたいと思うことは皆口止めされて結局何も云うことがなくて困ったと云ってこぼした。これはソリスベリー卿が彼を政治界へ送り出す初舞台としてやらせたらしいのであるが、当時既にレーリーの心は科学の方へ決定的に傾いていた。一八七六年には動物虐待防止法案の修正を提出した。一八七二年にはグラドストーンから大学の財政に関する調査委員会の一員となることを勧められた。一八七七年大学令の改正委員が選ばれた時も、彼は仲間に入れられた。旧師のストークスもその員《かず》に加わっており、わざわざアイルランドから出かけて来たが、会議中ただの一語も発せずに坐っていたそうである。レーリーも会議にはあまり熱がなかったと見えて、ある人が彼にある科学上の問題を話しかけたとき、それは午後の委員会のときにゆっくり考えてみようと云った。この点「職務不忠実」であったのである。
一八七五年八月、ブリストルの大英学術協会に出席中に郷里から電報で呼びかえされた。彼の長子で現在のレーリー卿たる Robert John Strutt が生れたのであった。
一八七五年から七六年にわたる冬の数箇月間ビーチャム・タワー(Beauchamp Tower)というエンジニアーを助手として水力学の実験をした。この人は有名なフルード(William Froude)の弟子であった。前に述べた「白鳥池」を利用して水力実験室を作り、色々の形の穴から水を流出させるときの孔内の圧力分布を測ろうというのであった。この実験はその後にマロック(Arnulph Mallock)が完成し、而《しか》してレーリーの理論的の計算と一致する結果を得た。
一八七六―七七年の冬には、やはりフルードの弟子で、また親戚であった前記のマロックを助手として液体力学の実験をした。不思議なことにはこの時やった実験のことをすっかり忘れてしまって、四十一年後になって同様な実験をやることの提案をしている。
タワーやマロックのような、自分で独立の研究の出来るような人は彼の助手としてはあまり適当でなかった。それで一八八〇年までは全く助手なしで独りで実験していた。しかし後ではやはり助手のなかった事を悔いた。
一八七六年の Cambridge Mathematical Tripos の試験には補助試験官に選ばれた。その試験問題の討究のために試験官仲間をターリングに招待したが、そのためにソリスベリー卿とディスレリーとの和解の饗宴という歴史的のシーンに出席する機会を逸した。レーリーの出した試験問題(Coll.Pap.,1,p.280)にはオリジナルな点があった。問題が急所に触れていてただの elegant academic exercise ではなかった。
一八七三年にレーリーが家督を相続した頃は農業も相当有利であったが、一八七四年に外国貿易の頓挫した影響から、引いて農民の窮迫を来し、従って地主の財政も極めて不利になった。一八七九年から翌年へかけては小作人がだんだん土地を返上して来たので、地主は自作するより外途がなくなった。この財政の困難ということが、レーリーをしてケンブリッジの教授としての招聘《しょうへい》に応じさせた主要な原因であったと云われている。
相続後の家政は大概、書記や執事や代言人に任せてあって、彼自身は大審院の役をつとめるだけであった。家作の修理などを執事がすすめてもなかなか受入れなかった。
農業に関する知識は相当にあって、人工肥料の問題にも興味があり、この点では却って旧弊な執事等より進取的であった。
弟の Edward Strutt が大学卒業後農事に身を入れるようになったので、一八七六年に家産全部の管理を弟に一任し、生涯再び家事には煩わされなくてもいいようになった。この時弟のエドワードはわずか二十二歳であったのである。吾々はこのエドワードに感謝したい気がする。
一八七七年の春はマデイラへの航海をした。昔夫人の父が肺病でここに避寒に行って亡くなったのである。その時の乗船にケルヴィンの羅針盤が三台備えてあった。タムソンはレーリーに手紙をやって、どうかこの器械を見て意見を聞かせてくれと頼んだ。その手紙に添えて彼の測深器の論文も送るとある。マデイラの断崖で気流の実験をして鳥の飛翔の問題を考えたりした。帰途プリモースに上陸し、そこからフルードの船型試験室を訪問した。レーリーはフルードの才能と人柄を尊敬していた。二人の行き方はどこか共通なところがあった。最も簡単な推理によって問題の要点を直進するところが似ていると、今のレーリー卿が評している。
一八七八年の五月に王立研究所(Royal Institution)で色に関する講演をした。十月二日には次男の Arthur(後に海軍士官)が生れた。一八七八ー七九年には王立研究所の評議員を務めた。
一八七七年に彼の Theory of Sound の初版がマクミラン(Macmillan)から出版された。一八七三年のナイル旅行の船中で稿を起したのが、足かけ五年目に脱稿したのである。書いて行く間に色々の新しい問題が続出する、それを一々追究してはその結果を別々の論文で発表していた。この著書の草稿は Mathem. Trip. の試験答案の裏面を利用して書いたのであった。ヘルムホルツは『ネーチュアー』誌上にこの書の紹介を書き、この書は正にタムソン―テートの『物理学』に比肩すべき名著であると云った。タムソン―テートの書物が遂に完結せずに了《おわ》った一つの理由は、レーリーのこの書とマクスウェルの『電磁気学』が出て、それで大体書くべきことは尽されたからというのであった。これはタムソン自身の
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