レーリー卿(Lord Rayleigh)
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)粉磨業《こなひきぎょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)涙|脆《もろ》く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王+干」、第3水準1−87−83]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔e'chelon grating〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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レーリー家の祖先は一六六〇年頃エセックス(Essex)州のモルドン(Maldon)附近に若干の水車を所有して粉磨業《こなひきぎょう》を営んでいた。一七二〇年頃ターリング(Terling)に新しく住家を求め、その後 Terling Place の荘園を買った。その邸宅はもとノリッチ僧正(Bishops of Norwich)の宮殿であった。その後ヘンリー八世の所有となったこともあった。その時の当主ジョン・ストラット(John Strutt)は Maldon からの M. P. として選出された。この人の長子は早世し、次男の Joseph Halden Strutt(一七五八―一八四五)が家を継いだ。彼は陸軍大佐となり王党の国会議員となり、Duke of Leinster の娘の Lady Fitzgerald と結婚した。これがここに紹介しようとする物理学者レーリー卿の祖父である。勲功によって貴族に列せられようという内意があったが辞退したので、爵位はその夫人に授けられ、夫人からその一人息子の John James Strutt(一七九六―一八七三)に伝えられた。これが最初の Lord Rayleigh となった訳である。Rayleigh は附近の小都市の名で、口調がいいというだけの理由でこの名を採用したものらしい。彼は Clara Elizabeth La Touche Vicars と結婚して、Langford に住んでいた。ここで John William Strutt が生れた。これがすなわち物理学者のレーリー卿である。
レーリーの血筋に科学的な遺伝があるとすればそれはこの外戚《がいせき》のヴィカース家から来ているらしい。すなわち外戚祖父とその兄弟は工兵士官であり、また外戚祖母の先祖にも優れた砲工兵の将官が居た。また祖母 Lady FItzgerald は有名なボイル(Robert Boyle)の兄弟の裔《すえ》だそである。
一八四二年の十一月十二日に John Willam を生んだときに母は年わずかに十八歳であった。そうしてこの子はいわゆる七月子《ななつきご》として生れたのである。三歳になるまで物が云えなかった。しかし物事にはよく気がついて、何でも指さして「アー、アー、アー」と云った。そうして「あれはお家《うち》です」、「犬です」という返事を聞かないうちはなかなか満足しなかった。祖父の大佐がこの子を始めて見たときに「これはよほど利口か、それとも大馬鹿だ」と云った。それはこの児の頭蓋骨の形を見てそう云ったものらしい。
生れて二十箇月後に階段から転がり落ちて、頭に青や黒の斑点が出来た。その後にも海岸の波止場《はとば》から落ちて溺れかかった事もあった。また射的《しゃてき》をしている人の鉄砲の筒口の正面へ突然顔を出して危うく助かった事もあった。大きくなるに従って物を知りたがり、卓布にこぼれた水が干上がるとどうなるかなどと聞いた。内気でそして涙|脆《もろ》く、ある時羊が一匹|群《むれ》に離れて彷徨《さまよ》っているのを見て不便《ふびん》がって泣いたりした。記憶がよくて旧約全書の聖歌を暗誦したりした。環境には何ら科学的の刺戟はなかったが、塩水に卵の浮く話を聞いて喜んで実験したり、機関車二台つけた汽車を見てその効能を考えたりした。伯母に貰った本で火薬の製法を知り、薬屋でその材料を求めて製造にかかっているところを見付かって没収された話もある。
一八五二年すなわち十歳のとき学校へ入るために Eton に行ったが、疱瘡《ほうそう》に罹りまた百日咳に煩わされたりした。それで Wimbledon Common にあった George Murray という人の私塾のような学校に入って、そこで代数や三角や静力学初歩を教わったが、その頃からもう彼の優れた学才が芽を出して師を感嘆させた。同時にいたずら好きの天分をも発揮して、ガス管内に空気を押し込み、先生の祈祷が始まると燈火が自然に消えるという趣向を案出し実行した。その頃彼の父は彼に農業の趣味を養うために郷里で豚を飼わせ、その収入を彼の小使銭に充《あ》てた。この銭は多くは化学材料を買うために費やされ、ある時は燐《りん》で指を焼いた。後年ケルヴィン卿が化学会の晩餐演説でこの事を引合に出し、レーリー卿は十二歳のときに燐で指を焼いたそうだが、自分は八十二歳のときに全く同じ火傷《やけど》をしたと云った。
十四歳のとき Harrow に入ったが、二年級になってから胸の病を得て退学した。生命もどうかと気遣われたが幸いに快癒したので今度は Rev. G. T. Warner の学校に入ってそこで四年間の修業をした。その間に一度 Cambridge の Trinity College におけるある Minor Scholarship の試験を受けたが失敗した。師の Warner は「今度はいけなかったが決して二度とは失敗しまい」と云った。その頃の彼の悪戯《いたずら》の傑作は、Milton の sonnets をそのまま自作のような顔をして田舎新聞に投書したことである。勿論新聞は夢にも知らずにそれを掲載した。
十五歳の頃から写真を始めてかなり身を入れてやった。その外の娯楽は乗馬、クリケット、フートボール、クロケー、射的などであった。その頃彼は休暇の度に近親の年上の誰かに淡い恋をしたが、次の休暇には前の恋人はすっかり忘れて、また別の初恋をするのであった。またある時は若い婦人に扮装して午餐会に現われ、父の隣席に坐って一座を驚かせた。
いよいよ Cambridge に入った。貴族の子弟であるので、Fellow Commoner として入学した。しかし極めて質素な生活をしていた。ここで有名な Routh の下に厳しい数学的訓練を受けた事が、後年の彼のために非常に有益であったことは彼自身も認めている。その頃彼はよく長椅子に凭《もた》れてぼんやりしていることがあった。友人には、面白い作り話を考えているんだと云ったが、実は数学の問題を考えていたらしい。彼は生涯喫煙はしなかった。
一八六四年の秋には Sheepshanks Exhibitioner に選ばれた。これは大変な名誉なことであったが、これについて母に送った手紙には「試験官が私の書いたナンセンスに感服したのは可笑《おか》しい」とあった。この秋から彼は始めてストークスの光学の講義に出席し、特にその講義でやって見せる実験を喜んだ。ストークスの考え方や表現の仕方がすっかり気に入ってしまった。そのうちに Mathematical Tripos の試験が近づいた。彼の伯母が心配して師のラウスに見込みを聞いたら、ラウスは "He'll do." と答えたそうである。
在学中の彼は試験官の銘々の癖をよく呑込んで、例えばトドハンター先生の出す問題を予知したりした。ある試験官は「ストラットの答案は多くの書物よりもいい」と云った。
一八六五年の正月に彼は遂に Senior Wrangler の栄冠を獲た。その表彰式に彼の母も参列したが、人々は「我《わが》 Senior Wrangler の姉君[#「姉君」に傍点]」のために万歳を三唱」した。実際母は彼よりただ十八歳の年長者であったのである。彼の郷閭《きょうりょ》の人々のうちには彼の学者として立つ事が彼の Lord としての生活と利害の相反することを恐れるものもあった。この学位を得た後に二人の友人とイタリア旅行をしたが、美術見物には大した興味がないようであった。
一八六五年の四月に始めての講演をした。ひどく「はにかみや」であったのでこの時の演説はよく聞き取れないくらいであった。しかし晩年はかなり講演がうまくなり、政治演説なども相当有効にやってのけるようになった。
自分の研究をする自由は得たが、実験を始めようとしても器械や道具が手に入れられなかった。定性分析のコースを一学期やらせてもらったくらいのものであった。しかし読物には事を欠かなくてマクスウェルの電磁気論(一八六五)や、マクスウェル及びヘルムホルツの色の研究、それからストークスやウィリアム・タムソンの主要な論文を読み、傍《かたわ》らまたミルの論理学や経済論を読んでいた。
一八六六年二十四歳で Trinity の Fellowship を獲た。その頃の友人の中には George Darwin も居たが、違った方面の友では Arthur Balfour すなわち後の首相バルフォーア卿と親交を結んだ。これが彼の生涯に大きな影響をすることになったのである。
一八六七年の八月に始めて大西洋を越えてアメリカの旅をした。帰ってみると彼の郷里ではチフスが流行していたので家族とともに五マイル離れた Tofts へ転地し、父のレーリー卿がただ一人 Terling に止《とど》まっていた。これが動機となって後にこの荘園内にあった「白鳥池」を利用して水道工事が出来、これが後に水力学の実験に利用されるようになったのである。
その頃彼は国会議員として政治生活に入るように彼の父その他からも勧められた。政治に対する興味はかなりあったが国会議員として立つ事は好まなかった。そうしてテートやマクスウェルなどと文通をしながら研究をしていた。またチャールス・ダーウィンとも知合になった。後年彼の書いたものの中にこんなことがある。「一八七〇年にダーウィンと一緒になったとき、あるアメリカ人からよこした手紙のことを話した。それは『失礼ですが貴方《あなた》の顔が著しく猿に似ているという事実が貴方の学説をひどく左右したのだと思います』というのであった。」
一八六八年の米国旅行から帰ってから、彼は自分の実験に着手した。ルムコルフコイル、グローヴ電池、無定位電流計、大きな電磁石、タムソンの高抵抗ガルヴァなどを買入れた。最初にやった実験は、電流計の磁針が交流でふれることに関するものであって、その結果は同年の British Association で報告している。その外の実験は色に関するものや、電気感応と惰性とのアナロジーなどに関するもので、これに関するマクスウェルとの文通が保存されている。
一八七一年に、ケンブリッジに新設されたキャヴェンディッシ講座に適当な人を求める問題がおこった。その時レーリーからマクスウェルに送った手紙を見ると、ウィリアム・タムソンは決定的に辞退したから、是非《ぜひ》ともマクスウェルが就任してくれるようにと勧誘している。その手紙の中でこう云っている。「この地位に望ましい人は、ただ講義をするだけの先生ではなくて、実験に体験をもった数学者で、そうして若い学者達の活動を正しい道に指導することが出来る人でなければならない。」マクスウェルは遂に承諾して最初の Cavendish Professor となった。その年にタムソンがヘルムホルツに送った手紙によると、もしマクスウェルが断ったら、この椅子はレーリーに廻るのであったらしい。
この年にマクスウェルの紹介で、共鳴に関する彼の論文が Phil. Trans. に出た。この論文が評議会を通過したことを告げたのは、ソリスベリー卿であった。「この間評議会で君の破《わ》れ徳利《とくり》が出たよ」と云ったそうである。こ
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