の興味も頭脳の鋭さも、少しも衰えなかった。ただ全く新しい馴れぬ方面の仕事に立入る気はなくなっていた。ある時彼の長子が「科学者も六十過ぎると、役に立たないばかりか、むしろ害毒を流す」と云ったハクスレーの言葉を引いて、どう思うかと聞いたら、「それは、年寄って若い人の仕事を批評したりするといけない事になるかもしれないが、自分の熟達した仕事を追究して行くなら別に悪い事はあるまい」と答えた。
一九一二年の暮にレーリーの末男が死んで、幸福な彼の晩年にも一抹の黒い影がさした。一九一三年の春は肋膜《ろくまく》を病んだ。そのとき「もう五年生きていたいのだが」と云った。一九一四年ルムフォード賞牌を受けたときに、人への手紙に「私の光学上の仕事が認められたのは嬉しい。あれは外の仕事よりも一層道楽半分にやったのだが」と書いている。
大戦中ターリングは軍隊の駐屯所となった。ある時はツェペリンの焼け落ちるのが見えたり、西部戦線の砲声が聞こえたりした。音響学における彼の深い知識は戦争の役に立った。飛行機や潜航艇の所在を探知する方法について絶えず軍務当局から相談を受け、また一方では国民科学研究所と航空研究顧問委員会の軍事的活動の舞台でも主役を勤めていたので、その頃の彼の書斎は机の上も床の上もタイプライターでたたいた報告書類などで埋まっていた。
レーリーの航空趣味は久しいものであった。子供の時分に燈火をつけた紙鳶《たこ》を夜の空に上げて田舎の村人を驚かし、一八九七年には箱形の紙鳶を上げ、糸を樹につないだまま一晩揚げ切りにしておいたこともあった。一八八三年には鳥の飛翔について、『ネーチュアー』誌に通信を寄せた。これがリリエンタールの滑翔の研究を刺戟したことは本人からレーリーに寄せた手紙で分る。ライト兄弟もまたレーリーの影響を受けたらしい形跡がある。一九〇〇年マンチェスターでの講演では飛行機の原理を論じ、ヘリコプテルや垂直スクリューにも論及した。それで航空研究顧問委員会が組織されたときに彼が委員長になったのも偶然ではない。航空研究に関して彼の極めて重要な貢献は「力学的相似の原理」(Principle of dynamical similarity)の運用であった。これがなくてはすべての模型実験は役に立たないのである。短い論文ただ二つではあったが、これがこの方面の研究の基礎となった。
レーリーが公衆の面前に現われた最後は心霊学界の会長就任演説(一九一九)をした時であった。この演説も全集に収められている。
一九一七―一八年の冬頃からどうも脚が冷えて困ると云ってこぼしていた。一九一八年の夏は黄疸《おうだん》で二箇月寝込んだ。彼は自分の最後の日のあまり遠くないのを悟ったらしかった。それでもやはり仕事を続け、一九一八年には五篇、一九一九年には七篇の論文を出した。
一九一八年の暮バキンガム宮で大統領ウィルソンのために開かれた晩餐会に列席した。明けて一九一九年正月の国民科学研究所の集会に出た時に所長の重職を辞したいと申出たが、一同の強い勧誘で一先ず思い止まった。その時のついでに彼はインペリアルカレッジの実験室に長子をおとずれた。丁度その時子息が実験していた水銀燈を見たときに、彼は、干渉縞[#「干渉縞」は底本では「干渉稿」]の写真を撮って、それで光学格子を作るという、自分で昔考えた考察を思い出した。しかしターリングの設備では実行が出来ないのであった。それで、次にロンドンへ来た折に二人で一緒にやってはどうかという子息の申出を喜んだように見えた。それから帰宿の途中、地下鉄の昇降器の中で卒倒したが、その時はすぐに回復した。
一九一九年五月十八日の日曜、例の通り教会へ行ったが気分が悪いと云って中途で帰宅し、午後中ソファで寝ていた。翌朝は臥床を離れる元気がなかった。五月二十七日と二十八日とは好天気であったので、戸外の美しい日光の下でお茶に呼ばれるために、二階からやっと下りて来た。六月一日長子が週末で帰省したときに、自分はもう永くはないが、ただ一つ二つ仕上げておきたいことがあると云った。六月二十五日には「移動低気圧」に関する論文の最後の一節を夫人に口授して筆記させ、出来上がった原稿を Phil. Mag. に送らせた。六月三十日には少し気分がよさそうに見えた。晩餐後ミス・オーステンの小説『エンマ』を読んでいた。しかし従僕が膳部を下げにはいって見ると、急に心臓麻痺を起していたので、急いで夫人を呼んで来た。それから間もなくもうすべてが終ってしまった。
葬式はターリングで行われた。キングは名代を遣わして参列させ、その他ケンブリッジ大学や王立協会の主要な人々も会葬し、荘園の労働者は寺の門前に整列した。墓はターリング・プレースの花園に隣った寺の墓地の静かな片隅にある。赤い砂岩の小さな墓標には "For now we see in a glass darkly, but then face to face." と刻してある。その後ウェストミンスター・アベーに記念の標石を納めようという提議が大学総長や王立協会会長などの間に持出され、その資金が募集された。標石の上の方には横顔を刻したメダリオンが付いている。レーリーの私淑したと思わるるトーマス・ヤングの記念標と丁度対称的に向き合っている。除幕式は一九二一年十一月三十日、ジェー・ジェー・タムソンの司会の下に行われた。その時のタムソンの演説はさすがにレーリー一代の仕事に対する簡潔な摘要とも見られるものである。その演説の要旨の中から、少しばかり抄録してみる。
「レーリーの全集に収められた四四六篇の論文のどれを見ても、一つとしてつまらないと思うものはない。科学者の全集のうちには、時のたつうちには単に墓石のようなものになってしまうのもあるが、レーリーのはおそらく永く将来までも絶えず参考されるであろう。」
「レーリーの仕事はほとんど物理学全般にわたっていて、何が専門であったかと聞かれると返答に困る。また理論家か実験家かと聞かれれば、そのおのおのであり、またすべてであったと答える外はない。」
「彼の論文を読むと、研究の結果の美しさに打たれるばかりでなく、明晰な洞察力で問題の新しい方面へ切り込んで行く手際の鮮やかさに心を引かれる。また書き方が如何にも整然としていて、粗雑な点が少しもない。」「優れた科学者のうちに、一つの問題に対する『最初の言葉』を云う人と、『最後の言葉』を述べる人とあったとしたら、レーリーは多分後者に属したかもしれない。」
しかし彼はまたかなり多く「最初の言葉」も云っているように思われる。
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(附記) 以上はほとんどすべて Robert John Strutt すなわち現在のレーリー卿の著書 "John william Strutt, Third Baron Rayleigh" から抄録したものである。ここでは彼の科学的な仕事よりはむしろこの特色ある学者の面目と生活とを紹介する方に重きをおいた。近頃の流行語で云えば彼は代表的のブールジョア理学者であったかもしれない。しかし彼の業績は世界人類の共有財産に莫大な寄与を残した。彼はまた見方によれば一種のディレッタントであったようにも見える。しかし如何なるアカデミックな大家にも劣らぬ古典的な仕事をした。彼は「英国の田舎貴族」と「物理学」との配偶によってのみ生み出され得べき特産物であった。吾々は彼の生涯の記録と彼の全集とを左右に置いて較べて見るときに、始めて彼の真面目《しんめんもく》が明らかになると同時に、また彼のすべての仕事の必然性が会得されるような気がする。科学の成果は箇々の科学者の個性を超越する。しかし一人の科学者の仕事が如何にその人の人格と環境とを鮮明に反映するかを示す好適例の一つを吾々はこのレーリー卿に見るのである。
冒頭に掲げた写真(省略)は一九〇一年五十九歳のときのである。マクスウェルとケルヴィンとレーリーとこの三人の写真を比べて見ると面白い。マクスウェルのには理智が輝いており、ケルヴィンのには強い意志が睨《にら》んでおり、レーリーのには温情と軽いユーモアーが見えるような気がする。これは自分だけの感じかもしれない。
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[#地から1字上げ](昭和五年十二月、岩波講座『物理学及び化学』)
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「岩波講座 物理学及び化学」岩波書店
1930(昭和5)年12月30日
※誤植を疑った箇所を、「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店、1961(昭和36)年2月7日第1刷発行の表記にそって、あらためました。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
2009年9月15日修正
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