日本人が、主婦に対して色々詫言《わびごと》を云うのを、主婦の方では極めて機嫌よく「いや何でもありません、ビッテ、シェーン」を繰返していた。そうしてその人が永い滞在の後に、なつかしい想いを残してその下宿を去る日になって、主婦の方から差出した勘定書を見ると、毀《こわ》れた洗面鉢の代価がちゃんとついていたという話がある。
またある留学生の仲間がベルリンのTという料理屋で食事をした時に、いつもするように一同で連名の絵葉書をかいた。その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連中のうちの一人の江戸っ子が、「それじゃインキがどれだけ多くついてもやはり同じ事か」と聞いた。そうだという返答をたしかめてから後に悠々と卓布一杯に散々楽書をし散らして、そうして苦い顔をしているオーバーを残してゆるゆる引上げたという話もある。
ドイツだとこれほど簡単に数字的に始末の出来る事が、我が駒込辺ではそう簡単でないようである。
どちらがいいか悪いか、それは分らない。ある解釈に従えば、私の偶然に関係した店の主人の仕打ちうや、それに対する私
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