えばすりこぎでとろろをすっているのなどを見ても、どうもやはり手首の運用で巧拙が別れるような気がする。
 ところが、手首にもやはり人によって異なる個性のあるものだという事実をある偶然な機会によって発見した。それは、セロの曲中に出て来る急速なアルペジオをひくのに、弦から弦と弓を手早く移動させるために手首をいろいろな角度に屈曲させる。その練習をしている際に私の先生の手首と自分の手首とでは、手首の曲がる角度の変化の範囲はほぼ同じであるが、しかしその両極端の位置、従ってその平均の位置における角度がかなり著しく違うということに気がついたのである。それで、先生には最も自然で無理のない手首の姿勢が弟子《でし》の自分には非常に苦しい、無理な、むしろ不可能に近いものになるのであった。しかしその先天的の相違を認めてもらって、それ以外の要領を授かれば、結果においては同じ事になってしまうのである。それで先生は弟子の手首の格好を見ただけで弟子をしかるわけにはゆかない。
 手首の問題についての自分の経験はまずこれだけであるが、よく考えてみると、この手首の問題を思い出させるような譬喩的《ひゆてき》な手首の問題がいろい
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング