です?」
「Sという人ですが――」
「ああ、そうですか、Sなら知っております。私も、すぐ傍を通ってゆきますから、ご案内しましょう。」
 前の男にお礼をいって、私達は、その男と一緒になって歩き出した。男はガッシリした体に、細かい茶縞木綿の筒袖袢纏をきて、股引わらじがけという身軽な姿で、先にたって遠慮なく急ぎながら、折々振り返っては話しかける。
「谷中へは、何御用でお出でです?」
「別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――」
「ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。」
 男はひどく冷淡な調子で云った。
「残っている人は実際のところどのくらいなものです?」
 山岡は、男が大分谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。
「さあ、しっかりしたところは分りませんが、十五六軒もありますか。皆んな飛び飛びに離れているので、よく分りません。Sの家がまあ土手から一番近い所にあるのです。その近くに、二三軒あって、後はずっと離れて
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