で問題になった土地なんです。」
「ああそうですか。」
 私にもそういわれれば何かの書いたものでT翁という人は知っていた。義人とまでいわれたその老翁が、何かある村のために尽したのだということも朧ろ気ながら知っている。しかしそれ以上のくわしい事は何も知らなかった。
「実は今日その村の人が来ましてね、いろいろ話を聞いてみると実にひどいんです。何だか、とてもじっとしてはいられないので一つ出かけて行って見ようと思うのです。」
 M氏は急に、恐ろしく興奮した顔つきをして、突然にそういって黙った。私には何の事だかいっさい分らなかったけれど、不断何事にも真面目なM氏のひと通りのことではないような話の調子に、まるで外れているのも済まぬような気がして、さぐるようにして聞いた。
「その村に、何かあったのですか?」
「実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ。」
「え、どうしてですか?」
「話が少しあとさきになりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解らないでしょうけれど
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