三
私が初めてその谷中村という名を聞き、その事件について知り得たのは、三年か四年も前のことだ。その頃私の家に一番親しく出入していたM夫妻によって、初めて私はかなりくわしく話して聞かされた。
ある日――それはたしか一月の寒い日だったと覚えている――M夫妻は、いつになく沈んだしかしどこか緊張した顔をして門をはいってきた。上がるとすぐ例のとおりに子供を抱き上げてあやしながら、ひとしきりよろこばしておいて、思い出したように傍にいた私に、明日から二三日他へゆくかもしれないといった。
「何方へ?」
何気なしに私はそう尋ねた。
「え、実は谷中村までちょっと行ってきたいと思うのです。」
「谷中村って何処なんです。」
「ご存じありませんか、栃木ですがね。例の鉱毒問題のあの谷中ですよ。」
「へえ、私ちっとも知りませんわ、その鉱毒問題というのも――」
「ああそうでしょうね、あなたはまだ若いんだから。」
そう云ってM氏は妻君と顔見合わせてちょっと笑ってからいった。
「T翁という名前くらいはご存じでしょう?」
「ええ、知ってますわ。」
「あの人が熱心に奔走した事件なんです。その事件
前へ
次へ
全69ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 野枝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング