渡さなかつたところ、女車掌が金切り声をあげて半町も追ひ駈けて来たこと、感ずる所あつて昼食のパンを五日食べずに、校長官舎の犬が痩せて栄養不良らしかつたのでその犬に呉れてやつたこと、その犬の尻尾には今も猫イラズを塗りつけてある筈だなどすらすら喋《しやべ》り立てたが、しかし香櫨園の女中のことはさすがに言へなかつた。
 寿枝の順番が来ると、寿枝はなぜか急にいそいそとして、まず楢雄の夜尿症を癒《なほ》した苦心を言ひ、そして今は癒つたが、しきりに爪を噛んだり、指の節をボキボキ折る癖があつて、先生、父もどんなにみつともないと気を揉んだことでせう。それから、今も暇さへあれば蠅ばかり獲つたり、ぶつぶつひとり言を言ふ癖がありまして、この頃は易《えき》の本を読み耽つてゐるやうでございます……と、寿枝はここで泣き、部屋の中はもう暗かつた。
「ひとり言を言ふのは、心に不平がある証拠だが、易の本といふのは、君どういふ意味かね。」
 と、校長は、ドラ猫の方を向いた。ドラ猫は、
「はあ、皆私が到らぬからであります。」
 と、ハンカチで眼鏡を突き上げたかと思ふと、いきなり楢雄の腕をつかんで、
「君は、君は、何といふこと
前へ 次へ
全41ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング