けした装飾の店だった。
 豹吉はハナヤの前で再び腕時計をみた。十時……。
「丁度だ」
 はいろうとした途端、中から出て来た一人の男がどすんと豹吉に突き当りざまに豹吉の上衣のかくしへ手を入れようとした。
「間抜けめ!」
 低いが、豹吉の声は鋭かった。
 男はあっと自分の手首を押えた。血が流れていたのだ。
 鋭利な刃物が咄嗟に走ったらしかった。走らせたのは豹吉だ。
 豹吉はあっけに取られている男の耳へ口を近づけると、
「掏るなら、相手を見て仕事しろ」
「豹吉だなア」
 男はきっと睨みつけると、覚えていろと、雑踏の中へ姿を消した。
「間抜けめ! お前のような間抜けのことをいつまでも覚えてられるか」
 ひょいと出た洒落に押し出されるような軽い足取りを弾ませて、兄弟を連れてはいると、豹吉は素早く店の中を見廻した。いない……すかされた想いに軽く足をすくわれて、ちょぼんと重く坐ると、
「なんや、雪子はまだ来てないのか」
 めずらしく寂しい影がふと眉の上を走った。
 雪子――。
 記憶の良い読者は覚えているだろう。
 小沢と一緒に阿倍野橋の宿屋に泊った裸の娘が、宿帳をつける時「雪子」と自分の名を言った
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