顔もよう見なかった。
お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を顔にあてた。泣き止《や》んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟の信一《しんいち》は尋常《じんじょう》四年で学校へ上っとりますが、今日《きょう》は、まだ退《ひ》けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。種吉は氷水を註文《いい》に行った。
銀蠅《ぎんばえ》の飛びまわる四|畳《じょう》の部屋《へや》は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごを提箱《さげばこ》に入れて持ち帰り、皆は黙々《もくもく》とそれをすすった。やがて、東京へ行って来た旨《むね》蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚《びっくり》してしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてええやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮《きょうしゅく》した。
母親の浴衣を借りて着
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