ついたまま離《はな》れず、口も利けなかった。お互《たが》いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔《くい》が一瞬《いっしゅん》あった。

 避難《ひなん》列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、真《まっ》すぐ上塩町《かみしおまち》の種吉の家へ行った。途々《みちみち》、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼《は》られていた。
 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚《びっくり》してしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんに訊《き》けば、蝶子の失踪《しっそう》はすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠《ねむ》れなんだという。悪い男|云々《うんぬん》を聴き咎《とが》めて蝶子は、何はともあれ、扇子《せんす》をパチパチさせて突《つ》っ立っている柳吉を「この人|私《わて》の何や」と紹介《しょうかい》した。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上|挨拶《あいさつ》が続かず、そわそわしてろくろく
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