に……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。
 夜中に下手な浄瑠璃を語ったりして、近所の体裁も悪いこっちゃと、ほっとした。「……お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻《りんね》ゆえ、そい臥《ふ》しは叶《かな》わずとも、お傍《そば》に居たいと辛抱して、これまで居たのがお身の仇……」とこっちから後を続けてこましたろかという気持で、階下《した》へ降りた。柳吉の足音は家の前で止った。もう語りもせず、気兼ねした容子で、カタカタ戸を動かせているようだった。「どなたッ?」わざと言うと、「わいや」「わいでは分りまへんぜ」重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」と外の声は震《ふる》えていた。「維康いう人は沢山《たんと》いたはります」にこりともせず言った。「維康柳吉や」もう蝶子の折檻を観念しているようだった。「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」となおも苛《いじ》めにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生《せっしょう》やぜ」と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずり込んだ。無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭を打《ぶ》っつけた。「痛ア!」も糞《くそ》もあるもんかと、思う存分折檻した。
 もう二度と浮気《うわき》はしないと柳吉は誓《ちか》ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。しばらくすると、また放蕩《ほうとう》した。そして帰るときは、やはり折檻を怖《おそ》れて蒼くなった。そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。
 柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞《さかずき》も手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。が、四五日たつと、やはり、客の酒の燗《かん》をするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺《どうこ》の中へ浸《つ》けた。明らかに商売に飽《あ》いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞《とどこお》り勝ちになり、結局、やめるに若《し》かずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座《そくざ》に同意した。

「この店譲ります」と貼出《はりだ》ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めたきりだった。柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。貯《たくわ》えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも惜《お》しかった。向い側の五六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲《さ》きこぼれていて、活気を見せた。客の出入りも多かった。果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立ってもいられず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「果物屋《あかもんや》をやれへんか」柳吉は乗気にならなかった。いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。
 ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。帰って来ての話に、無心したところ妹の聟が出て応待したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局|鐚《びた》一文も出さなかったとしきりに興奮した。そして「果物屋をやろうやないか」顔はにがりきっていた。
 関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。仕入れや何やかやで大分金が足らなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」と百円貸してくれた。
 その足で上塩町《かみしおまち》の種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二三日手を貸してくれと頼んだ。西瓜《すいか》の切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要に迫《せま》られて、こんどは柳吉の口から「一つお父つぁんに頼もうやないか」と言い出していた。種吉は若い頃お辰の国元の大和《やまと》から車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切売りしたことがある。その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親娘《おやこ》三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話し、喜んで手伝うことを言った。関東煮屋のとき手伝おうと言って柳吉に撥ねつけられたことなど、根に持たなかった。どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜同志(好いた同志)の差し向い」と淡海節《たんかいぶし》の文句を言い出すほどの上機嫌だ
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