階の四畳半一間あるきり、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭《いんきくさ》かったが、廓《くるわ》の往《ゆ》き帰りで人通りも多く、それに角店《かどみせ》で、店の段取から出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾《のれん》をくぐって、味加減や銚子《ちょうし》の中身の工合、商売のやり口などを調べた。関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老《えび》でも烏賊《いか》でも天婦羅ならわいに任しとくなはれ」と手伝いの意を申《もう》し出《い》でたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉を嘲《あざけ》った。「私《わて》らに手伝《てつど》うてもろたら損や思たはるのや。誰が鐚《びた》一文でも無心するもんか」
 お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。まだ暑さが去っていなかったこととて思いきって生ビールの樽《たる》を仕込んでいた故、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙《いそが》しく、小便に立つ暇もなかった。柳吉は白い料理着に高下駄《たかげた》という粋《いき》な恰好で、ときどき銭函《ぜにばこ》を覗《のぞ》いた。売上額が増《ふ》えていると、「いらっしゃァい」剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。俗に「おかま」という中性の流し芸人が流しに来て、青柳《あおやぎ》を賑《にぎ》やかに弾いて行ったり、景気がよかった。その代り、土地柄が悪く、性質《たち》の良くない酒呑《さけの》み同志が喧嘩をはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とった杵柄《きねづか》で、そんな客をうまくさばくのに別に秋波をつかったりする必要もなかった。廓をひかえて夜更《おそ》くまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色《むらさきいろ》に変っていた。くたくたになって二階の四畳半で一刻《いっとき》うとうとしたかと思うと、もう目覚ましがジジーと鳴った。寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品付十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物《つけもの》、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡《たか》をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。
 秋めいて来て、やがて風が肌寒《はだざむ》くなると、もう関東煮屋に「もって来い」の季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒《めいしゅ》の本鋪《ほんぽ》から、看板を寄贈《きぞう》してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空《むな》しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費《むだづか》いもないままに、勢い溜《た》まる一方だった。柳吉は毎日郵便局へ行った。体のえらい商売だから、柳吉は疲《つか》れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子《いす》に腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
 案の定、妹の婚礼に出席を撥ねつけられたとて柳吉は気を腐《くさ》らせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日《もんび》が続いて店を休むわけに行かず、てん手古舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。その夜更《おそ》く、帰って来た。耳を澄《す》ましていると、「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛《はんべえ》様もお通に免《めん》じ、子までなしたる三勝《さんかつ》どのを、疾《と》くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまい
前へ 次へ
全18ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング