という当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛《さか》り場《ば》を足早に歩いた。熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。やはり暑い日だった。
十日目、ちょうど地蔵盆《じぞうぼん》で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰《く》りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈《えあんどん》の下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。行燈の明りに顔が映えて、眩《まぶ》しそうに眼をしょぼつかせていた。途端に三味線の糸が切れて撥ねた。すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。
二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。この十日間梅田の家へいりびたっていたのは外やない、むろん思うところあってのことや。妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡《はいちゃく》と相場は決っているが、それで泣寝入りしろとは余りの仕打やと、梅田の家へ駆け込むなり、毎日膝詰の談判をやったところ、一向に効目がない。妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮している身に勝目はないが、廃嫡は廃嫡でも貰《もら》うだけのものは貰わぬと、後へは行けぬ思《おも》て梃子《てこ》でも動かへんなんだが、親父《おやじ》の言分はどうや。蝶子、お前気にしたあかんぜ。「あんな女と一緒に暮している者に金をやっても死金《しにがね》同然や、結局女に欺されて奪《と》られてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。別れた、女も別れる言うてますと巧《うま》く親父を欺して貰うだけのものは貰《もろ》たら、あとは廃嫡でも灰神楽《はいかぐら》でも、その金で気楽な商売でもやって二人|末永《すえなご》う共白髪《ともしらが》まで暮そうやないか。いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。それで蝶子、明日《あした》家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。本真《ほんま》の気持で言うのやないねんぜ。しし、芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいは直《じ》き帰って来る。――蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。
翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒《ないしょ》で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ坐り込んでしまうつもりかも知れぬ。とそうまではっきりと悪くとらず、またいくら化粧問屋でもそこは父親が卸《おろ》してくれぬとすれば、その時はその時で悪く行っても金がとれるし、いわば二道を掛けているか、それとも自分で自分の気持がはっきりしてないか、何しろ、柳吉には子供もあることだと、そこまでは口に出さなかったが、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家におれぬ勘定だから結局は柳吉に戻って欲しければ「別れると言うたらあきまへんぜ」蝶子はおきんの言う通りにした。嘘にしろ別れると言うより、その方が言い易《やす》かった。それに、間もなく顔を見せた使の者は手切金を用意しているらしく、貰えばそれきりで縁が切れそうだった。
三日経つと柳吉は帰って来た。いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」不機嫌《ふきげん》極まった。手切金云々の気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは慾を出さんかいや」なるほどと思った。が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。
父親からは取り損ったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。剃刀屋のにがい経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えた末、結局焼芋屋でもやるより外には……と困っているうちに、ふと関東煮《かんとだき》屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」ひどく乗気になった。適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田《とびた》大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人《おとな》しい女子衆《おなごし》は続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作から道具|一切《いっさい》附き三百五十円で譲《ゆず》ってくれた。階下は全部|漆喰《しっくい》で商売に使うから、寝泊《ねとま》りするところは二
前へ
次へ
全18ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング