ませると、しかし十円も残らなかった。
 二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋の担《かつ》ぎ屋《や》が「家《うち》の二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」と言うたのをこれ倖《さいわ》いに、飛田《とびた》大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。柳吉は相変らず浄瑠璃の稽古に出掛けたり、近所にある赤暖簾《あかのれん》の五銭|喫茶店《きっさてん》で何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。蝶子は口が掛れば雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出掛けた。もうヤトナ達の中でも古顔になった。組合でも出来るなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子|姐《ねえ》さんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。衣裳の裾なども恥かしいほど擦《す》り切れて、咽喉《のど》から手の出るほど新しいのが欲しかった。おまけに階下《した》が呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえ銘仙《めいせん》の一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親の仇《かたき》をとるような気持で、われながら浅ましかった。
 さん年経つと、やっと二百円たまった。柳吉が腸が痛むというので時々医者通いし、そのため入費が嵩んで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。二百円出来たので、柳吉に「なんぞええ商売ないやろか」と相談したが、こんどは「そんな端金《はしたがね》ではどないも仕様がない」と乗気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田の廓《くるわ》で瞬く間に使ってしまった。四五日まえに、妹が近々|聟《むこ》養子を迎《むか》えて、梅田新道の家を切り廻して行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓《しょうぎ》を相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろ呆《あき》れてしまった。ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟を掴んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締《し》めあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思う存分|折檻《せっかん》しなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、撲る、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」と悲鳴をあげた。蝶子はなかなか手をゆるめなかった。妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情《ちじょう》めいた。隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。さすがにそこまでは追わなかった。階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は物一つ言わず、袖に顔をあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。毎朝味噌しるを拵《こしら》えるとき、柳吉が襷《たすき》がけで鰹節《かつおぶし》をけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。担ぎ屋も同感で、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花節を聴きに行ったとき、立て込んだ寄席《よせ》の中で、誰《だれ》かに悪戯《いたずら》をされたとて、キャッーと大声を出して騒《さわ》ぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思い、体裁の悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と帰って女房に言った。「あれでは今に維康さんに嫌《きら》われるやろ」夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日《いくにち》も帰って来なかった。
 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼んだ。種吉は、娘の頼みを撥《は》ねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手《へた》に顔見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余り口喧嘩までし、その足で新世界の八卦見《はっけみ》のところへ行った。「あんたが男はんのためにつくすその心が仇《あだ》になる。大体この星の人は……」年を聞いて丙午《ひのえうま》だと知ると、八卦見はもう立板に水を流すお喋《しゃべ》りで、何もかも悪い運勢だった。「男はんの心は北に傾《かたむ》いている」と聴いて、ぞっとした。北とは梅田新道だ。金を払って外へ出ると、どこへ行く
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