た。蝶子は泣けもしなかった。夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中《まんなか》にぺたりと坐り込み、腕《うで》ぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。柳吉は三味線の撥《ばち》で撲られた跡《あと》を押《おさ》えようともせず、ごろごろしていた。
もうこれ以上|節約《しまつ》の仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。商売道具の衣裳も、よほどせっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋《ごふくや》に物言うのもはばかるほどであったお蔭で、半年経たぬうちにやっと元の額になったのを機会《しお》に、いつまでも二階借りしていては人に侮《あなど》られる、一軒借りて焼芋屋《やきいもや》でも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託《いたく》をしてもらうと瞬《またた》く間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃刀の替刃《かえば》、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切《つめき》りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす」声の張りも違った。そして「主人《うち》がこまめにやってくれまっさかいな」と言い、これは柳吉のことを褒《ほ》めたつもりだった。襷《たすき》がけでこそこそ陳列棚《ちんれつだな》の拭《ふ》き掃除をしている柳吉の姿は見ようによっては、随分男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんも慾が出るとなかなかの働き者だと思った。
開店の朝、向う鉢巻《はちまき》でもしたい気持で蝶子は店の間に坐っていた。午頃《ひるごろ》、さっぱり客が来えへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、眼を皿《さら》のようにして表を通る人を睨んでいた。午過ぎ、やっと客がきて安全の替刃一枚六銭の売上げだった。「まいどおおけに」「どうぞごひいきに」夫婦がかりで薄気味《うすきみ》悪《わる》いほどサーヴィスをよくしたが、人気《じんき》が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げは〆《し》めて二円にも足らなかった。
客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。話の種も尽《つ》きて、退屈したお互いに顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい想いがした。退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古《けいこ》しに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがに憚《はばか》って、商売をするようになってから稽古したいという。その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。柳吉は近くの下寺町の竹本|組昇《そしょう》に月謝五円で弟子入《でしい》りし二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁《あさ》って、毎日ぶらりと出掛けた。商売に身をいれるといっても、客が来《こ》なければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。毎月食い込んで行ったので、再びヤトナに出ることにした。二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業《しょうばい》大事とつとめて、一人で座敷を浚《さら》って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。夕方、蝶子が出掛けて行くと、柳吉はそわそわと店を早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店でかやく[#「かやく」に傍点]飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝《からすがい》の酢味噌で酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れをしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。ヤトナの儲けでどうにか暮しを立ててはいるものの、柳吉の使い分がはげしいもので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱したあげく、店の権利の買手がついたのを幸い、思い切って店を閉めることにした。
店仕舞いメチャクチャ大投売りの二日間の売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済
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