北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ今の暮しだと、引合いに出したりした。「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」探す肚があるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。維康さんの肚は分らんとおきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。
千日前「いろは牛肉店」の隣《となり》にある剃刀屋《かみそりや》の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨折ってくれた、その手前もあった。門口の狭い割に馬鹿に奥行のある細長い店だから昼間なぞ日が充分《じゅうぶん》射《さ》さず、昼電を節約《しまつ》した薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りを眺《なが》めていると、そこの明るさが嘘《うそ》のようだった。ちょうど向い側が共同便所でその臭気がたまらなかった。その隣りは竹林寺《ちくりんじ》で、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方では餅《もち》を焼いて売っていた。醤油をたっぷりつけて狐色《きつねいろ》にこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。餅屋の主婦が共同便所から出ても手洗水《ちょうず》を使わぬと覚しかったからや、と柳吉は帰って言うた。また曰《いわ》く、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに身体を動かして剃刀をといでいる恰好が面白いとて飾窓《ウインドー》に吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。それだけの芸でこと足りた。蝶子は、「そら、よろしおまんな」そう励《はげ》ました。
剃刀屋で三月《みつき》ほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩《けんか》して癪《しゃく》やからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真《ほんま》だと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。蝶子は一層ヤトナ稼業《かぎょう》に身を入れた。彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんと奉《たてまつ》られるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を貸したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促出来なかったから、何かとべんちゃら(お世辞)して、はよ返してくれという想いをそれとなく見せるのだった。五十銭の金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。柳吉は毎日がいかにも面白くないようで、殊《こと》にこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。父の勘気がとけぬことが憂鬱《ゆううつ》の原因らしく、そのことにひそかに安堵《あんど》するよりも気持の負担の方が大きかった。それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほどには平気ではなかった。
実家に帰っているという柳吉の妻が、肺で死んだという噂《うわさ》を聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結《えんむす》び」に詣《まい》って蝋燭《ろうそく》など思い切った寄進をした。その代り、寝覚めの悪い気持がしたので、戒名《かいみょう》を聞いたりして棚《たな》に祭った。先妻の位牌《いはい》が頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞《ふるま》った。
二年経つと、貯金が三百円を少し超《こ》えた。蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部|払《はろ》うてくれたんかと種吉に訊くと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」と証文出して来て見せた。母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、瞼《まぶた》が熱くなった。それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。そこで貯金はちょうど三百円になった。そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減っ
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