しまった。しかし、その時、電話が掛ってきて、
「M署……?」
とききかえしている電話口の女中の声を聴いた途端、はや銀造の眼はピカリと光り、青ざめた顔を緊張が走った。
丁度その頃、京都駅では、二十一時に大阪を出た東京行き急行列車がホームにはいり、昼間しめし合わせた乗竹侯爵と落ち合った貴子が、東京の女友達と一緒に、二等車へ乗ろうとしていた。
四
大阪からその汽車に乗っていた章三は、貴子たちが二等車にはいって来たのを見て、ニヤリと凄い微笑を泛べた。
「やっぱりおれの思った通りや」
貴子は今日の昼間、夜の九時頃に立つといっていたが、その時間に出る東京行きの急行はこの二十一時大阪発の一本しかないと、章三は田村から大阪へ帰った足で、すぐ切符の手配をして、その汽車に乗り込んだのだった。
もっとも、貴子がただ女友達と二人きりで乗ったとすれば、章三のその計画も無意味なものになってしまうところだったが、案の定貴子は上品な顔立ちの青年と二人空いた座席へ並んで腰を掛けた。その青年の顔を一目見るなり、章三は、
「あいつやな、乗竹侯爵は……」
と、疑いもなくピンと来て、自分の勘の適中に満足した。しかし、その満足は、非常に愉快なものだ――といっては、言い過ぎになる。
なぜなら、げんに章三の眼の前にある光景は、自分の妾がよその男と旅行しようとしている――いわば章三のような自尊心の強い男にとっては、随分と男の下る事実なのだ。しかも、その男、乗竹春隆は昨夜田村へ、陽子を連れて来ているのだ。
にやりと微笑したが、さすがに章三の顔がこわばった青さに青ざめていたのも当然だ。
「今に見ろ!」
章三は今朝田村で見た新聞の売家広告を想い出した。
「売邸、東京近郊、某侯爵邸」とあったその広告を見て、大阪へ帰ると、章三は早速東京へ電話して、それが乗竹侯爵邸であることを調べ上げたのだ。そして、その偶然にスリルを感じていた。
陽子――春隆――田村――貴子――売邸――東京行き……。
偶然は偶然を呼んで、章三を取り巻いている。更にいかなる偶然が降って湧くか――と、章三の眼は人生のサイコロの数を見つめる人間のように血走っていた。
いわば、偶然の糸を、章三は自分の人生のコマに巻いたのだ。そして、ぶっぱなせば、コマは廻って行く。それが章三にとっては、生き甲斐であり、章三の人生は絶えずコマのように回転している必要があるのだ。
今に見ろ――とは、だから、ただ陽子の居所をきくために、春隆をとっちめるという最初の目的から飛躍して、
「おれがこの汽車に乗ったことは、ただで済むまい」
春隆をもただで済まさないが、おれ自身もただでは済むまい。おれはもうサイコロを投げた――という、偶然への挑戦であった。
偶然といえば、貴子も春隆も、その車室の隅に章三がいることに気がつかなかった。章三の方からははっきり見えるが、貴子や春隆の方からは見えにくいという位置に、それぞれ坐っていた。
そして、貴子と春隆がそんな偶然を少しも感じずに、ピタリとつけたお互いの肉体からただ肉体だけを感じているうちに、汽車は山科のトンネルに入った。
五
「窓を少しあけましょうか」
トンネルを過ぎると、春隆は腰を浮かして窓の金具に手を掛けた。春隆の上衣の裾が窓側の貴子の顔に触れた。
「でも雨じゃないですか……?」
貴子は口にあてていたハンカチをはなしながら、分別くさい調子でゆっくりと言った。顔も体も声も若かったが、さすがにそんな言い方には、四十一歳という年齢がふと現れるのだった。
「あ。そうね」
と、春隆は例のいんぎんな調子で、腰を下したが、貴子のそんな言い方が何だか面白くなかった。雨が降り込むことをうっかり忘れていた間抜けさ加減を嗤われた――と思い込むほど、春隆も貴族の没落を感じている昨今妙にひがみ易くなっていた。
一つには、煤が眼にはいった不快さも手伝っていた。煤が眼にはいるのは不可抗力とはいうものの、春隆はそれをくしゃみのように恥かしいことだと感ずる男だったのだ。煤というものは下賤の人間だけにはいるものだと思っているのだろう。
むっとしながら眼をこする代りに、だから春隆はその手で貴子の手を握ることを思いついた。
眼の中のコロコロとした痛みを我慢しながら、一方で女の手の触感をたのしむなんて、思えばわれながら噴き出したくなるようなものだったが、もともと気のすすまぬ旅行だ、それぐらいはしてもいいだろうと、春隆は思ったのである。
京都の悪友から遊びに来いと誘われて、東京を立ってから、もう一月以上にもなる春隆のもとへ、すぐ帰れという母親の手紙が来たのは、もう三日も前のことだった。春隆の父は五年前に、築地の妾宅で睡眠中に原因不明の死に方をし、兄は映画女優のあとを追うて満州へ
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