土曜夫人
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)茉莉ン家《ち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)まだ[#「まだ」に傍点]十時だ。
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女の構図
一
キャバレエ十番館の裏は、西木屋町に面し、高瀬川が流れた。
高瀬川は溝のように細い。が、さすがに川風はあり、ふと忍びよる秋のけはいを、枝垂れた柳の葉先へ吹き送って、街燈の暈のまわりに夜が更けた。
しかし、十番館のホールではまだ夏の宵だった。
裳裾のようにパッとひらいた頽廃の夜が、葉鶏頭の花にも似た強烈な色彩に揺れて、イヴニングドレスの背中をくりぬいて見せた白い素肌が、蛇のようにくねると、そのくぼみに汗が汗ばみ、女の体臭を男の体臭が絞り出すような夏の夜の踊りに、体の固い若いダンサーのステップもいつか粘るのだった……。
そんなホールの中へ、こおろぎが一匹、何にあこがれたのか、さまよい込んで、ピョンとはねた途端、クイックターンのダンスシューズの先に蹴られて、チリチリと哀れな鳴き声のまま、息絶えたが、その声はバンドの騒音に消されて、たれも気がつかなかった。
木崎三郎も気がつかなかった。
木崎は肉眼がカメラのレンズに化してしまったかと、思われるくらい、視覚神経の病的に鋭いカメラマンであり、ことにグラフ雑誌から頼まれたダンスホール風景の写真を撮りに、三晩もつづけて十番館へ足を運んでいるのだから、ホールの床の上のこおろぎという構図には敏感に神経が動く筈だのに、やはり見逃してしまったのは、丁度その時、木崎は二階の喫茶室にいたからであろうか、それとも……。
喫茶室からは一眼でホールの隅から隅まで見下ろせたが、しかし、こおろぎまでは視力が届かない。とはいうものの、よしんばそれが出来ても、少くともその時の木崎の眼にははいらなかったに違いない。
なぜなら、木崎の視線はひたすら、辻陽子というダンサーの姿態や顔の動きを追うていたのだ。憑かれた眼にはそれだけしか見えない。
しかも、それが今夜で三晩も執拗につづいているのだ。最初の晩辻陽子を一眼見て、なぜかどきんとした途端に、もう木崎の眼は、
「よし。このダンサーだ。この女を撮ろう」
と、たちまちカメラのレンズに化してしまったが、しかし、非情のレンズにしては、何か熱っぽく燃えて、夜光虫のように光った。
木崎は自分の心の底を覗くように、レンズを覗いた。レンズの向うには、陽子のさまざまな姿態があった。が、三日目の今日まで、ついぞ一度もシャッターを切らなかった。
気に入った構図が見つかるまで、めったにフイルムを使おうとしない、名人気質的な、ふと狂気じみた凝り方は、いつものこととはいうものの、しかし、いつもの彼ならいそいそと撮ったようなポーズにも強く反撥していたのは、一体何であろう。
木崎の顔は憂愁の翳が重く澱んで、いらいらと暗かった。が、何を思ったのか、急に起ち上ると、木崎は階段の中程に突っ立った。
そして、陽子へ向けたライカのシャッターを切った途端、一人のダンサーが声も立てずに、いきなり床の上へ崩れるように、倒れた。
二
まるで、わざとのような偶然であった。
木崎のライカがカチッとシャッターの音を立てたのと、そのダンサーの体が崩れるように床の上へ倒れたのと、殆んど同時――というより、むしろ、シャッターの音が防音装置のピストルのかすかな音のように、彼女を倒した――と言ってもいいくらいだった。
木崎も驚いたが、客もダンサーも、そして楽師もあっと思った。
バンドの調子は、いきなり崩れた。
一階のホールの正面の演奏台ではスウィングバンド、二階の廊下から突き出したバルコニー風の演奏室にはタンゴバンド――この二つのバンドが交替で演奏するのだが、丁度その時はタンゴバンドの番だった。
曲はクンパルシータ。
みんな知っている曲ゆえ、一層その崩れ方が判った。が、楽師はあわてて調子を取り戻した。昨日までいてよそのホールへ引っこ抜かれたバンドの代りに、今夜から新しく雇い入れられたバンドだった。いわば初演奏だ。だからすくなくとも今夜はおかしいくらい熱心だった。しかし、取り戻した調子を張り上げた時は、もう誰も踊っている者はなかった。
ステップをすっと引き寄せてから、その反動でぐっと女の体を押して行く――いわば情熱的にアクセントの強いタンゴの中でも、クンパルシータの曲は誰も踊りたがり、お茶を引いて椅子に「カマボコ」になっているダンサーすら、同じカマボコさんをつかまえて、女同士で踊っていたくらいだが、しかし倒れた茉莉の顔は、余りに青すぎた。
ただごとではない。
「醜態だね。転ぶのはまだ早いや。宵の口じゃないか。不見転ダンサーか。誰なんだい」
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