ステップを踏みはずして、転んだのか――と皮肉りかけた口の悪い客も、
「あ、茉莉が……」
 倒れたのかと気がつくと、あわてて相手のダンサーをはなして、
「――茉莉誰と踊ってたんだい。柔道屋か」
 茉莉はまかりまちがっても転ぶような、そんな下手なダンサーではなかったのだ。
「踊りでは茉莉、顔では陽子」
 と、十番館では定評になっていた。
「えッ、茉莉が……?」
 と、陽子も顔色を――いや、陽子の顔色は既に木崎がシャッターを切った時なぜかはっと変っていた。
「あ、うつされる!」
 と、ぎょっとしたように、いきなりそむけた顔が、みるみる青ざめた。
「失礼します」
 陽子は客からはなれて、木崎の方へ行こうとした――その途端、茉莉が倒れたのだ。
 写真も気になったが、それよりも茉莉のことが……。ちょっと迷ったが、やはり陽子は人ごみの間をすり抜けて、茉莉の方へかけよった。
 茉莉の顔は、青ざめた陽子よりも、血の色がなかった。頬紅の色まで青く変っていた。
 そして、口から泡をふき出して、床の上を蛭のようにかすかにうごめいている――その傍に、青年がキョトンと突っ立っていた。

      三

「あ、京ちゃん」
 茉莉の倒れている傍に、突っ立ってキョトンとしている青年の顔を見ると、陽子は茉莉よりもその青年に声を掛けた。
 十番館では「京ちゃん」で通っている京吉という二十三の青年だった。
 京吉はどこのホールでも、チケットなしで踊れた。
 天才的にダンスが巧いのだ。ダンス教師も京吉のステップを見ていると、自分が情なくなるくらいだった。京吉の相手をしたダンサーは、慾も得も商売気も、そして憂さも忘れて――いや自分を見失ってしまうくらい、うっとりと甘くしびれるのだった。
「バンドがよくって、好きな曲で、リードの素晴らッしく巧い奴と踊ってると、よっぽど生理的にいやな奴でない限り、ふっと、こいつに口説かれてみたい――と思うことがあるわ」
 と、浮気なダンサーが言っているが、身持ちの固いダンサーでも、ダンスの三昧境へ巧みにリードされて行くと、ふっと相手に身を任しているような錯覚に、ゆすぶられることもあるという。
 ダンスの持っている強烈な、――殆んど生理的なリズムにまで燃える魅力の一つであろうか。
 京吉はそんな魅力を持っている少数の一人だった。
 おまけに、美貌だ。
 二十三歳だが、十代に見えるくらい、一見無邪気な可愛いい顔立ちで、ほっそりと痩せた横顔の青白さは、まるで胸を病む少女のようにいじらしく、ふと女たちにはやるせなかった。が、美しい眉に翳るニヒルな表情や、睫毛の長い眼のまわりの頽廃的な黝ぐろい隈や、キッと結んだ唇の端にちらと泛ぶ皮肉な皺は、何かヒヤリとした苦味のアクセントを、京吉の顔に冷たく走らせて、ふと三十男のようであった。
 ハンサムという言葉では、当らない。いわば、女たちをうっとりさせると同時に、ぞっとした寒気を感じさせる美貌だ。
 だから、みんな京吉と踊りたがった。
「チケットを倍にして返すから、あたしと踊ってよ。ねえ、京ちゃん、明日来て、あたしと踊ってよ」
 と、頼む女もあった。京吉となら、チケットを貰うのが済まないというのであろう。
 その京吉と、茉莉は今夜踊っていたのだ。
 ――と、陽子は思い出して、
「どうしたの、一体……」
 と、せきこんで、たずねた。
「う……?」
 京吉はちらと陽子の顔を見た。
「あんた、茉莉と……」
 踊ってたんでしょう――と、あとは眼できいたが、京吉は答えず、不機嫌な唇を結んで、キョトンとした眼で、茉莉を見下ろしていた。
 繋ぎ提灯の、ピンク、ブルウ、レモンエローの灯りが、ホールの中を染めていた。
 が、茉莉の顔はその色に染まりながら、いや、そのために一層、みるみる蝋色の不気味さに変って行くのが、判るようだった。
 苦しそうだ……。

      四

 口からふき出している泡の間から、だらんと垂れた舌の先が見え、――茉莉はかすかに唸っていた。
 バンドは間抜けた調子で、誰も踊っていないホールへ相変らずクンパルシータの曲を送っていたので、茉莉のうめき声は、ともすればその音に消されたが、苦しそうにうめいていることだけは、さすがに風のように陽子の耳には判った。
「あ、いけない!」
 茉莉のうめき声は、いのちの最後の苦しみを絞り出しているのかもしれない――といういやな予感に、陽子はどきんとして、
「――お医者を……」
 呼びに早くボーイを……と、あわてて振り向いた途端、木崎の姿が眼にはいった。
 木崎は相変らず階段の真中に突っ立っていた。
 十番館ははじめ進駐軍専用のキャバレエとしてつくられたので、シャンデリア代りに祇園趣味の繋ぎ提灯をつり、階段は御殿風に朱塗りだった。
 ことに正面の階段は、幅がだだっ広く、ぐっ
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