行ったきり、長春かどこかで石鹸を売りながら生きのびているという風の便りが、一度あったほかは消息が判らず、現在は母親と妹の信子と三人家族だったが、母親の手紙によれば、妹の信子の品行が心配だから、兄のお前から意見をしてやってくれ云々とあり、春隆も母親の手紙を黙殺することは出来なかった。といって、京都には未練があった。
 陽子を誘惑し損ったまま東京へ帰るのは、何としても後味が悪い。どうせ東京へ帰らねばならぬとすれば、貴子から誘われたのはもっけの道連れだと、切符を手配する手間のはぶけるその汽車に乗って、
「途中熱海で降りるとしても、宿賃は向う持ちだ」
 と、存外俗っぽい、しかし、それが持ちまえのチャッカリしたやに下り方をしていたとはいうものの、さすがに、
「あっちが駄目になったから、こっちを……」
 という、陽子から貴子に乗りかえる現金さには、軽い悔恨があった。
 しかし、またそれだけに、くしゃみよりも簡単に手が握れる。いきなり膝の上の手を握ると、貴子は表情も変えずに握りかえした。
 それを、四つの眼が見ていた。

      六

 貴子の女友達の露子と章三の二人が、それを見ていたのだ。
「ははアん。やってるな」
 露子は斜向いの座席から、握り合わされた貴子と春隆の手を、安物の彫刻を見るように、眺めていた。
 血が通っていないようだった。恋人同士はこんな風には握り合わない。こんな風に何の感激も何の感慨もない握り方はしない。
 だから、見ている露子の方でも、何の感慨もなかった。美しいとも、醜いとも、感じなかった。露子はただその握り方に、自分が銀座でやろうとしているキャバレエへ貴子が出してくれる資本の額を計算していた。
 どうやら、貴子はキャバレエの話には大して乗っていないらしい。が、せっかく京都まで来て、その日のうちに東京行きの汽車に乗せてしまうという早業に成功した限り、キャバレエの話にも乗せずに置くものかと、露子は意気込んでいた。そのためには、この旅行で貴子がさんざんたのしんでくれることが好ましい。
「さんざん見せつけたのじゃないの。おごる代りに資本を出しなさいよ。ね。気を利かせっぱなしじゃ、合わないわよ」
 という科白を用意しながら、露子はわざわざ貴子と春隆を二人並ばせて、自分は別の座席へ遠慮したのである。
 京都駅で春隆に紹介された時も、
「侯爵を燕にするなんて今時悪趣味じゃないの」
 と、皮肉りたいところだったが、じっと我慢して、
「――ちょっとハンサムね」
 という言葉で、貴子の耳をくすぐったりした――それも商売人が資本主との会談に芸者を当てがうというあの心理からだったのだ。
 しかし、貴子の何の情熱もなさそうな表情を見ていると、露子は、五十万円も出させるのは無理かなと失望気味でもあった。
 しかし、失望していたのは、貴子の方だ。自分の若さを金に換算し、男というものをパトロンになる資格の有無で見るならわしが身にしみ込んでいる貴子にも、もし夢があるとすれば、貴族への憧れだった。どんなチャッカリした女にも、一つだけ抜けたところがある。貴子の場合は、貧しい家に生れて若くから体を濡らして来た生活の中でも捨てなかった「貴子」という自分の名前への、浅はかな誇りがそれだった。
「この人とは恋が出来そうだ」
 そんな予感がふっと一筋の藁のように、頭に浮んだのだが、しかし、簡単に春隆から手を握られてみると、あっけなく夢はこわれ、もう貴子はリアリズムの女であった。米原を過ぎると、貴子は、
「ちょっとこっちを向いてごらん……?」
 春隆の瞼を眼医者のようにくるりとむくと、いきなり顔を寄せて、舌の先でペロッと一嘗めした。煤が取れた。
「――どう……?」
 ニイッと笑った貴子の顔は、恋をしない女の、恋の技巧がしたたるようだった。
 遠くから見ていた章三は、いきなり起ち上った。

      七

 もう我慢が出来ぬ――と、章三は貴子の座席の方へ行こうとした。貴子の横面を殴ろうとしたのだ。
 自分の女がほかの男と手を握り合っているばかりか、男の眼にはいった煤を、舌の先で嘗めて取っているのだ。遠くから見ていると、そのポーズがもっと別のことを錯覚させる。
 章三でなくても、誰でも殴りたいと思うのは、当然だろう。しかし、その男が春隆でなかったら、章三もそれほど逆上しなかっただろう。春隆は章三にとって最もきらいな人種なのだ。
 貴子が貴族に憧れるのは、結局卑賤に生れたことが原因しているが、それと同じ理由で、爪楊枝けずりの職人の家に生れた章三は、貴族というものに敵意を感じていたのである。そしてまた、爪楊枝けずりの職人の息子だということが、章三の自尊心を人一倍傷つき易いものにしていたから、人一倍カッとなって、殆んど前後の見境もなくなるところだった。
「自尊心を傷つ
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