も風呂番でもいいから使ってくれと、かつては鉄成金だった五十男の男を下げて転がり込んでから、ちょうど四日目の土曜日の晩、銀造は貴子の所へ来ていた章三を見たのだった。ちらと一眼だけ、あとにも先にも一度だけ見た顔だったが、咄嗟の勘でその男が貴子の現在のパトロンであることが判り、その時以来、銀造にとっては生涯忘れられぬ顔となったのだ。というより、忘れたいくらいだった。どうせ貴子にパトロンがありそうなことは気づいてはいたが、顔を見れば、さすがに年甲斐もなくこの男かと嫉妬が起った――その証拠には、拘置所の夜明けにも、その男の顔が夢に現われたこともある。
 その顔が向い側のプラットホームから、汽車に乗ろうとしているのだ。銀造はどきんとして、苦痛に青ざめた顔をそむけた途端に、
「……十番線の列車は二十一時発東京行き急行であります……」
 という拡声機の声をきいた。銀造はプラットホームの電気時計を見上げた。
「二十時十分か。発車までにまだ五十分ある」
 銀造はそう呟いたが、肚の中はべつのことを考えていた。――あの男は東京へ行くのだな、すると今夜は京都へ行かないなと、そんなことを考えていたのだ。
 京都――田村――貴子!
「――今夜は貴子はひとりだ!」
 豊満な貴子の肉体、その体温、体臭の魅力がよみがえり、もはや銀造にとって、京都へ行く喜びは娘のチマ子に会うことよりも、貴子の顔が見られることであった。
 銀造はもう一度振り向いた。章三の顔は二等車の窓にあった。
 彼の傲岸な顔は、やがて来た京都行きの省線に乗った銀造の瞼にいつまでも残り、銀造はおれも昔はあんな顔だったこともあると、東京で囲っていた貴子に会いに、大阪から寝台車に乗っていた時のことを想い出していた。何もかも昔の夢だ。寝台車で結んだ夢ももう夢になってしまった。日本も変ったが、銀造もすっかり変ってしまった。満州から引揚げてからは、からきし意気地のない男になってしまったのだ。
 頼る所はなく一部屋貸してくれと、田村へ転がり込むのはまだいいとして、章三を見た翌日、夜更けて貴子の寝室へ忍び込んで、こっぴどくはねつけられ、田村をおん出てしまう羽目になったのは、何としてもだらしがなさすぎた。
 しかし、電車が京都へ着くと、銀造は駅前の人力車を拾って、田村のある木屋町へ走らせながら、貴子恋しさにしびれて、その時のだらしなさを忘れるくらい、だらしがなくなっていた。

      三

 銀造を乗せた人力車夫は、見掛けは上品な顔だちだったが、車賃だけでは食って行けぬのか、怪しげな周旋もするらしく、旦那は木屋町へ行ってヤトナを買うのか、ヤトナは芸者よりは安いようで結局高いものにつく、それよりも、もっと安直で面白い所を紹介しようか――と、しきりにすすめるのだった。
「お銚子が一本ついて、タイムどしたら、百円でお釣りが来るのどっさかい、安おっしゃろ。それに、女は満州から引揚げて来た素人の女ばっかしで……」
 場所もM署の裏手だから、燈台下暗しで、かえって安全だという車夫の言葉を、銀造は辛い想いで聴いていた。
 引揚げとか、警察とかいう言葉は、銀造にとっては余りに身近な言葉だった。貴子に挑んで拒まれ、田村を飛び出してからの銀造の生活はうらぶれの底に堕ちていたが、しかし、さすがに大阪商人らしい気概は残っていたのか、おれも昔はひとかどの鉄屋だった。今に見やがれ、あの女を見返してやると、大阪の闇市の片隅で煙草を売り、握り飯を売り、砂糖を売り、酒を売り、その酒がメチルだったのだ。
 メチルとは知らずに売ったが、それでも人が死ねばやはり過失致死罪なのだろう、やがて投獄される憂目に会うたが、今はそれに脱走という罪が二重に重なって、おまけに拾った財布の金を無断で使っている。
 五条を過ぎると、急に雨だった。銀造の体が急に重くなったように、俥の歩みが遅くなった。さっと風が来て、横なぐりの雨を幌の隙間から吹きこんだ。
 幌につけたセルロイドの窓に雨滴が伝わり、四条通りの灯りをチラチラと流すと、やがて車は四条小橋から木屋町へ折れた――その途端、銀造ははげしい欲情を感じた。
 引揚者のわびしさも、脱走者の焦燥も、貴子への恨みも恥も外聞も忘れて、ただ貴子の白い肉体へのもだえに揺れているうちに、やがて俥は田村の玄関についた。
 さすがに敷居は高かった。女中に会わせる顔もなかった。が、思い切って勝手口からはいり、女中にきけば、
「ママはお留守どす。いま、東京へ立たはりました」
「チマ子は……?」
「こないだ(この間)からお居しまへんのどっせ」
 家出したらしいと、軽口の女中がペラペラと喋るのをききながら、魂が抜けたように料理場でぺたりとへたり込んでいると、貴子がいない失望よりも、家出したチマ子への心配が銀造をぽうっとさせ、いきなり十も老けて
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