兄ちゃん」
 鮮かな東京弁だった。ははあんと、京吉は上唇の裏に舌を当てて、
「じゃ、そいつ、セントルイスにいるのか」
「うん……? ――うん!」
 ちょっとセントルイスの中を見渡してから、うなずいたにちがいない――その仕草が想像されて、京吉はこの瞬間ほど娘がいとしくなったことはなかった。
「――だから、兄ちゃん、早く来てよ」
「よっしゃ」
「ハバア、ハバアよ」
「オー・ケーッてばさ。あはは……」
 と、笑った機嫌で、
「――お前何て名だっけ……?」
「あたい……?」
 びっくりしたようにきき返したのは、子供心に名前をきかれたという意外な喜びにどきんとするくらいだったのか、
「――兄ちゃん、あたい、カラ子!」
 と、しっとり、答えた声は、もう女の声だった。そんな息使いだった。京吉がもとの席に戻って来ると、グッドモーニングの銀ちゃんはなぜか重く沈んでいた。
「お待たせ!」
 その回も京吉が上って、そのイーチャンが終った。
「しかし、二千すったよ。金はセントルイスで払う。銀ちゃん、一緒に来てくれよ」
 と起ち上ろうとすると、銀ちゃんは、あわてて、
「おいもうイーチャンやろう」
 と、ひきとめた。
「だって、おれ急ぐんだ」
「いいじゃないか! セントルイスはよせ」
 銀ちゃんの声は急に鋭く凄んだが、眼は力がなかった。

      七

 京吉をひきとめた銀ちゃんの強気は、しかし、実はセントルイスで女を待たせてあるという弱みのせいであった。
 女は坂野の細君であった。
 銀ちゃんと坂野とは、坂野が京極の小屋へ出ていた頃の知り合いで、坂野が細君と結婚する時も、せめて形式だけでもと挙げた式は銀ちゃんのアパートで、銀ちゃんが盞をしてやったのだ。いわば仲人で、だから坂野も銀ちゃんを頼りにし、細君も夫婦喧嘩の時は銀ちゃんのアパートへ泣きついて行った。
 ある夜、ヒロポンのことから大喧嘩になり、飛び出した細君は銀ちゃんのアパートへ泣きに来た。遅いから、今夜は泊って行け、明日はおれが坂野の所へ行って謝らせて来てやる、くよくよせずに、これでも飲めと、グラスにウイスキーを注いだ。
 それがアルプ・ウイスキーだった。四条のある酒場へ行くと、顔で一本八十円でわけてくれる。公定価格は三円五十銭だが、それでも一本八十円のウイスキーは安い。死んだという噂もきかないから、少々眼にやにが出ても、メチルではあるまいと、専らこれにきめ、その晩も二人で二本あけてしまった。
 安いのと、口当りがいいので、ガブガブやったのが、いけなかったのだ。ほかのウイスキーではそんなことにもならなかったが、やはりアルプだった。銀ちゃんは前後不覚に酔っぱらい、意識が混濁したまま、坂野の細君と妙な関係になってしまった。細君も女に似ず強かったが、さすがに参っていた。
 坂野はむろん疑いもしなかった。昨夜は女房の奴がまた御厄介で――と、へんに律儀に恐縮していた。銀ちゃんは返す言葉もなかった。
 細君も悩んだが、しかし、この女は奇妙な女だ。悩んでいるかと思うと、あんなヒロポンマニアとは別れた方がましだと、サバサバしたり、不義の子を孕んだといって泣いたり、あんたの子うむのうれしいわとやに下ったり、ああ、おろしてしまいたい。
 と、とりとめがなかったが、昨夜いきなり、置いてくれと、家出して来た。
「そりゃ困るよ、だいいち坂野に知れたら……」
 銀ちゃんは少しでも女と一緒にいることを避けたかった。細君が逃げたと判れば、坂野はきっとその報告にやって来るだろう。夜が明けると、銀ちゃんは拝むように、
「どこかへ行っていてくれ」
「どこへ行ったらいいの。行く所ないわ」
「活動でも何でも見て来たらいいだろう。三時にセントルイスで会おう。相談はそれからのことだ」
 とにかく、ここにいてはまずいと、無理やり女を追い出した。しかし、三時に会うても何の話があろう。いい思案もうかばぬことは判り切っていたから、会うのが辛かった。
 イーチャンが終ると、柱時計を見上げて、五時を指している針を見た時、だから銀ちゃんは軽い後悔と共に、何か諦めた安心感を感じたが、実は時計は故障で停っていたのだ。まだ三時半だった。間に合う。いかねばならない。しかし、もうイーチャン打って、ずるずる時間を延ばすことが、この際のごまかしだった。
 無理に京吉をひきとめていると、風のようにふわりと一人の男がはいって来た。あッ。
 坂野だった。

      八

 北(ペー)の風から良い手のつき出した男らしく、京吉はもうイーチャン打つことには十分食指が動いていた。が、セントルイスで待っているカラ子のこともあった。
 だから、銀ちゃんにすすめられて、ふと迷っていた。その矢先の坂野の登場であった。
「あ、坂野さん、いいところへ来た」
 と、京吉はもっけの幸いの声を
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