を越す金も危なかった。が、それで満足していた。ボスとなった仲間への、ささやかな抗議であった。だから、酒を飲んでも、安いアルプ・ウイスキーしか飲まなかった。ところが、そのアルプ・ウイスキーがいけなかったのだ。
「アルプのおかげで、おれもひとの女房に手を出すようなへまをしたンだ」
 と、銀ちゃんは、昨夜から自分のアパートへ来ている女のことを、ちらと想い出した。亭主の所から逃げて来たのだ。
「女という奴は……」
 パイを揃えると、銀ちゃんはまずパイパン(白板)を捨てて、
「――済ました顔で、新聞雑誌読んでるが、バイキンみてえに食っついたら離れたがらねえ。パイパンみてえに捨てちゃえよ」
「じゃ、おれ拾うよ。パイパンおれの趣味だよ」
「ついでに、女も拾ってくれよ」
 この時、電話のベルが鳴った。

      五

 ぎおん荘でございます――と、さっきの女が電話口に出た。
「はい。おいやすどっせ。どちらはんどすか。――えッ、セント……? あ、セントズイス、セントズイスどんな」
「舌を噛んでけつかる」
 と、グッドモーニングの銀ちゃんは笑いかけたが、無理に笑っているような感じであった。そして、
「――セントルイスならおれだ」
 と、パイを伏せて腰をうかせかけたが、急にそわそわして、
「――いや、留守だといってくれ」
 と、いつもの銀ちゃんに似合わぬ落ち着きのなさは、何としたことであろう。しかし、
「京ちゃん、あんたに……」
 掛って来たのであった。銀ちゃんはほっとしたように、尻を落ちつけた。
「おれに……?」
 と、京吉は長い睫毛を、音のするようにぱちりと上げて、
「――今日はおれいやに電話に縁のある日と来てやがらア」
 パイを伏せて、わざと片手をズボンのポケットに入れながら、立って行った。
「京ちゃん……? あたし、判る……? おほほ……」
 笑い声で、セントルイスの夏子だと判った。
「何でえ……? 電話ばっかし掛けやがって、株屋の番頭みてえに一日中電話を聴かされてたまりやせんワ」
「あら。お門違いよ。あたしは封切よ。誰かさんと誤解してるんじゃない。おほほほ……。認識不足だわ」
 どうも言っている言葉がいちいち場違いにチグハグだったが、それよりも、受話器を通すと、ガラガラした声が一層なまなましく乾いて、あわれな肉感味を帯びているのが、たまらなかった。
「誰かさンて、誰だ」
「多勢いるから判らないんでしょう。えーと、あの人じゃないの。えーと、陽子さん! あれからまた掛って来たのよ。もう京都にいないって言ったら、絶望的だったわよ。おほほ……」
「…………」
「あんた、まだ京都にいたのね」
「はい、恥かしながら、パイパンで苦労してます」
「パイパン……? 何よ、それ。――京都にいるなら、リベラル・クラブへ一緒に行ってよ。今晩五時、発会式よ」
「どうぞ、御自由に」
「あら。一人じゃ行けないわ。会員は同伴、アベックに限るのよ。素晴らしいじゃないの」
「そんな不自由なリベラル・クラブよしちゃえよ!」
 電話を切ろうとすると、
「あ、ちょっと、ちょっと、用事まだ言ってないわよ」
「何だ……?」
「おほほ……」
「ハバア、ハバア!」
「せかさないでよ。今、代りますから。あたしはただお取次ぎよ」
 おほほ……と、笑い声が消えると、誰かが代って電話口の前に立ったらしく、息使いが聴えた。

      六

 誰だろう――と、声を待っていると、
「兄ちゃん……?」
 なつかしそうに、しかし、おずおずと受話器を伝わって来た声は、思いがけず、靴磨きの娘だった。
「――あたい、判る……?」
「うん」
「兄ちゃん、あたいなんぜ、こんなところから電話掛けてるか、判る……?」
 何かいそいそと弾んだ声だった。
「えっ……?」
 と考えたが、咄嗟には判らなかった。
「――おれ判るもんか。なぜ、セントルイスへ行ったんだい」
「判れへん……? ほんまに判れへんのン、兄ちゃん」
 じれったそうだった。
「判るもんか。なぜだ。言ってみろ!」
「…………」
 しかし、返辞はなかった。
「まかれてしまったのか」
 と、京吉は何気なく声をひそめた。娘に、あの男――スリを尾行しろと、ただそれだけ言ったのである。尾行して、それからどうしろ――と、注意を与える暇はなかった。だから、財布は戻るとは当てにしていなかった。ただ、わざわざスリを見つけながら、ほって置くのも癪だ――そんな軽い気持で尾行させただけである。娘がスリにまかれてしまったところで、べつに悲観もしない。ところが、
「ううん」
 まかれなかったわよ――という意味の声が、鬼の首を取った威張り方で聴えて来た。
「ほう……? 大したキャッキャッだね」
 と、京吉は思わず微笑して、
「――どこまで、つけたんだ……?」
「ここで言えないわよ。
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