出し、それでもう肚がきまった。
「――おれ、のくよ。坂野さん代ってくれよ」
 ねえ、その方がいいだろう――と、銀ちゃんの顔を見ると、
「…………」
 銀ちゃんはうなっていた。
 京吉と坂野が知合いだったことを、銀ちゃんは知らなかったのだ。だから、
「亭主がアコーディオン弾きだから、すぐ腹がふくれやがる」
 云々と、女のことで口をすべらせたのだが、思えば、うかつに言ったものだ。パイを捨てる手拍子につれて、ひょいとすべった言葉だが、どだい[#「どだい」に傍点]おれは弁士時代から口が軽いと来てやがる。
 銀ちゃんは毛虫を噛んだような顔で、しお垂れていた。
 その顔をちらと見た途端、京吉もはじめて、坂野が知らぬ間に銀ちゃんに細君を寝取られていたというホットニュースを想い出して、
「うえッ! こいつアひでえキャッキャッになりやがった」
 と、坂野を残して行く皮肉さを、ひそかに砂利のように噛んでいたが、しかし、この場の空気をにやにや見ているほど、京吉はいかもの食いではなかった。
「逃げるにしかず!」
 と、起ち上ろうとすると、坂野は、
「いいよ、京ちゃんやんな! せっかくヒロポン打ったんじゃないか。あたしア高見の見物だ」
 と、とめた。
 いや、その高みの見物になりたくないから逃げるのだと、京吉はそわそわして、
「おれ、セントルイスへ取りに行くものがあるんだよ」
「じゃ、おれ行って来てやるよ。どうせ女房を探して……」
 町という町からア、丘という丘を、あちらをも、こちらをも、探すは上海リル……という唄の文句を、自嘲的に口ずさみかけた途端、
「あッ!」
 と銀ちゃんが声を上げた。が、だれも気づかなかった。まして、坂野の細君がセントルイスで待っていることを、知る由もない。
「え、へ、へ……。なアんて、うまいこといって、この使いめったにひとにやらせてなるものか」
 これ取りに行くんだからねえと、親指と人差指で丸をつくって見せると、あッという間に祇園荘を飛び出して行った。
「おい、京ちゃん、京ちゃん!」
 グッドモーニングの銀ちゃんは、なに思ったか急に起ち上って、京吉を呼びとめた。

      九

「なンや、銀ちゃん……」
 あわてふためいて……と、京吉は入口まで戻って来た。もっと傍へ来い……と、銀ちゃんは眼まぜで引き寄せると、京吉の肩に手を掛けて、
「さっきの話……」
 坂野には内証だぜ……と、囁きかけたが、急にふっと気が変った。京吉という男は、ひとは善さそうだが、それだけに口は軽そうだ。だから、京吉の口から坂野の細君とのことがばれるおそれがある――と、銀ちゃんは呼びとめて、口止めしようと思ったのだが、京吉の顔を見ると、何だか京吉に対して恥しいような気がして、もう言えなかったのだ。いや、京吉によりも自分に恥しかったのだ。あわてふためいた口止めは、男らしくもないと思ったのだ。おまけに、それではあんまり坂野が可哀相だ。もっとも、一切合財坂野に打明けるのも、坂野には酷だと思った。が、「知らぬは亭主」の坂野のいる前で、こっそり口止めは、坂野を侮辱しているようなものだ。京吉に知られてしまったのは罰が当ったようなものだから、
「喋るなら喋れ」
 と、成行きに任せるのが、自分としても気が楽だと、銀ちゃんはせめてこの点で捨身の裸になっていたかった。
「さっきの……?」
 と、京吉はききかえした。
「いや、さっきの二千点の金、いつ払うんだ」
 と、銀ちゃんはむりにそこへ話を変えた。
 なアんだ、それで呼びとめたのかと、京吉は軽蔑したような口つきになって、
「ちゃっかりしてるね。払うよ。セントルイスへ行きゃア、はいるんだ。今日中に払うよ。銀ちゃん、そんなんかね。おれ見直すよ。感じ悪いや。払やいいんだろう」
 プイと怒って、出てしまった。銀ちゃんは憂欝な顔で卓子へ戻って来た。
「銀ちゃん、どうした。女に振られたんじゃないですか。元気溌剌じゃないですな」
 坂野はうかぬ顔でパイを撫ぜていた。
「そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね」
「あッしですか。」
 坂野は苦笑して、
「――女房逃げちゃったンでさア」
「へえン」
「だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね」
「大事にしてくれよ」
「女房をですかい」
「いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか」
「大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね」
「うん。てっきりだね」
 銀ちゃんはそっと坂野の顔色をうかがったが、急に、
「――おい、場をきめよう! どうせ短い命だ!」
 喧嘩腰のような声になった
前へ 次へ
全56ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング