間かも知れないと、気が滅入ってしまった。
誇張していえば、一町先が晴れても、そこだけが曇りその上を吹きわたる秋風の色がふと黒ずんで見えるような、そんな清閑荘だった。
建物も陰欝だったが、しかし、やがておシンに案内されて、木崎の部屋へはいって行った時、陽子は木崎の表情の陰欝さに驚いた。
木崎はちょうどドアをあけて、出かけようとしているところだった。東京の雑誌社から、
「シャシンイソグ……」
すぐ送らぬと間に合わぬという意味の催促の電報が来たので、断りの返事を打つため郵便局へ出かけようとしていたのだ。
「あら。お出掛け……?」
自動車で送って貰わなかったら、会い損ったわけだと、陽子はほっとしながら言ったが、
「…………」
木崎はだまって部屋の中へ戻りながら、ちらと陽子の足許を見た。その表情がぞっとするくらい陰欝だったのだ。
三
木崎の陰欝な表情については、
(なまなましい嫉妬が甦ったのだ)
と、一行の説明があれば、もはや明瞭だろうが、しかし、表情というものは、心理のズボンに出来た生活の皺だ。一行の説明はズボンの皺を伸ばすアイロンの役目をするだろうが、言葉のアイロンに頼っても、目に立たぬ細かい皺は残っているはずだ。が、この細かい皺を説明するには千行の説明を以てしても不十分だ。まして、泛んでは消え、消えては泛ぶ心理の皺は、いや、意識の流れは、ズボンの皺のように定着していない。
だから、一行を不足ともいえず、千行を過とするわけにもいかないが、しかし、人間のある瞬間の表情を、過不足なく描写する方法は、一体どこにあるのだろうか。
ありきたりの言葉、ありきたりのスタイルを以てしても、過不足なく描写出来たと思い込んでしまうのは、自分の人間観察力に与える秩序の正しさを過信しているからだろうか、小説作法の約束というものへの妄信からだろうか。
――などという、こんな前書きは、作法には外れているから、小説作法の番人から下足札を貰って、懐疑の履物をぬぎ、つつましやかに小説の伝統の茶室にはいり、描写の座蒲団の上に端坐して、さて、作法通りに行けば――。
木崎ははいって来た陽子の顔を見た途端、しびれるようななつかしさと同時に、何か、
「しまった!」
という悔恨に狼狽したのだ。得体の知れぬ悔恨であった。
陽子がなぜ自分をたずねて来たのか、まるで判らなかったが、カメラのレンズだけで覗いていた陽子が、今こうして一個の肉体となって現実に自分の前に現れて来た以上、もはや陽子は赤の他人ではなかった。
はじめて、十番館のホールで陽子を見た時、
「似ている!」
亡妻の八重子に似ていると、どきんとしたことは事実だが、しかし、仔細に観察すれば、他人の空似というほども似ていず、ただ少し感じが似ているというだけに過ぎないのだ。が、木崎は仔細に観察する余裕なぞなく、ホールの雰囲気の中で踊っている陽子の後姿をカメラの眼で追っているうちに、陽子の姿は嫉妬というレンズの額縁の中で捉えた亡妻の影像に変ってしまっていたのだ。
だから、陽子が眼の前に現れたのは、木崎にとっては八重子の影像がレンズから脱け出して来たのも同然であり、もはや似ているというような生やさしいものではなかった。当然しびれるようななつかしさを感じたのだが、しかし、それは恋情というものだろうか。
恋情とすれば、それはもう苦悩の辛さを約束したのも同様であり、心の自由を奪われてしまうことは覚悟しなければならない。だから、しまったと、悔恨を感じたのだ。
「到頭来たのか。やっぱし来たのか。何がこの女をおれの前へ連れて来たのか」
という悔恨であった。それが木崎の表情を陰欝にしたのだ。この女とはきっと何かが起るだろうという予感には、いそいそとした喜びはなく、何か辛かったのだ。
しかし、なぜ来たのだろう。木崎は陽子が口をひらくのを待った。
四
「わたくしお願いがあって、上りましたの」
十番館では「あたし」と言っていたが、陽子には、改まって言う時の「わたくし」の方が似合っていた。すくなくとも、とってつけたようには聴えず、ダンサーに似合わぬ育ちの良さ……と、木崎の耳には聴えた。
それがふと、木崎には悲しかった。しかし、それは、上品な育ちのよい女が身をおとして行く淪落の世相へのなげきではなかった。やはり、ダンスというものについて木崎の抱いている偏見のせいであった。清楚な女とダンスというものを、結びつけて考えたくないという偏見だ。事情は個人的なものだった。
木崎にとっては、ダンスとはつねに淫らなリズムに乗って動く夜のポーズであり、女の生理の醜さが社交のヴェールをかぶって発揮される公然の享楽であった。
だから、結びつけて考えたくないのだが、げんに陽子が結びついている。八重子が
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