、おめえ、これだろう……?」
と、腹の上に半円を描いた。
「京ちゃん、判るの……?」
おシンはびっくりしたような眼を、くるくる廻していた。誰にも勘づかれなかったのにと、若いくせに女の体に敏感な京吉の眼が、気味悪くもあり、頼もしくもあった。
「困ってンだろう……?」
「はばかりさま。ちゃアんと父親は……」
「あるのよ」――と言いたかったが、誰だか判らず、おシンは坂野の細君にだけは、ひそかに打ち明けていた。坂野の細君もどうやらそれらしかった。祇園の方に、簡単に手術してくれる医者があるらしく、紹介してやると坂野の細君は言っていた。細君もおろす肚だったのだ。ところが、昨夜逃げてしまったので、おシンはもう諦めていた。
「月が早けりゃ、注射一本でも平チャラだよ。坂野さんに打って貰ったらいいよ。ねえ、おシンちゃん。そうしろよ」
坂野さんは注射薬なら何でも持っているからと、言って、京吉は、
「京ちゃん、たまにいらっしゃいよ」
おシンのゲタゲタした笑い声を背中にきいて、清閑荘を出て行った。
チマ子のことは少しは気になっていたが、しかし、もう一度坂野の部屋へ戻って、木崎から事情をきこうという気になれなかったのは、
「おれの知ったこったねえや。どうだっていいや」
という気まぐれな無関心であった。こまかく神経が働きながら、京吉にはどこか粗雑な投げやりがつきまとっていた。
そのくせ、靴磨きの娘が、
「兄ちゃん、あたいもう兄ちゃんが出て来えへんと思って、心配してたンえ」
と言いながら、いそいそとぶら下って来た小さな手の触感には、敏感だった。
十二歳でありながら、京吉がこれまで触れて来たどの女の手よりも、ザラザラと荒れていたのだ。それがこの青年のわずかに残っている無垢な心を温めた。
「お前、東京生れだろう……?」
「うん。あたいコビキ町で生れたのよ。あたいのお家煙草屋。あたいの学校、六代目と同じよ。銀座へ歩いて行けたわ」
「田舎へ行くより、東京の方がいいだろう。やっぱし東京へ行こう」
「うん。こんな汚い恰好で銀座歩くのンいやだけど、兄ちゃんと一緒だったら、いいわ」
高台寺の道を抜けて、円山の音楽堂の横を交番の近くまで来た時、京吉は石段下の方から登って来た若い女の姿を見て、おやっと立ち停った。
八
占領軍の家族であろう。日射しをよけるための真赤なネッカチーフで、頭を包んだ二人の女が、その女の前でジープを停めて、話し掛けていた。
写真を撮らせてくれと頼んでいるらしい。女は困って、半泣きの顔で、ノーノーと手を振っている。
コバルト色の無地のワンピースが清楚に似合う垢ぬけた容姿は、いかにも占領軍の家族が撮りたくなるくらい、美しかったが、しかし足には切れた草履をはいていた。
図書館や病院で貸してくれるあの冷めし草履だ。その草履のために、写されることをいやがっているのだろうか。
しかし、京吉は、その女がなぜそんな草履をはいているのだろうと、考える余裕もなかった。
いや、眼にもはいらなかった。
「あ、陽子だ!」
と思いがけぬ偶然に足をすくわれていたが、しかし、偶然といえば、その時、陽子が写真をうつされることに気を取られていなかったとしたら、陽子も京吉に気がついていたかも知れない。しかし、偶然は、陽子の視線を京吉から外してしまった。
そして、更に偶然といえば――偶然というものは続きだすと、切りがないものだから――京吉が陽子の傍へ行こうとした途端、
「おい、君!」
と、交番所の巡査に呼び停められた。
「何ですかね……?」
「一寸来たまえ! お前も来い!」
巡査は京吉と靴磨きの娘を、交番所の中へ連れてはいった。
なぜ呼びとめられたのか、京吉はわけが判らず、むっとして、
「何か用ですか」
「名前は……?」
「矢木沢京吉!」
「年は……?」
「二十三歳」
「職業は……?」
「ルンペン」
「何をして食べとる……?」
「居候」
「その娘は、お前の何だ……?」
「…………」
「なぜ答えぬ」
「お前といわれては、答えられん!」
「ふーむ。その娘は君の何だ……?」
「妹です」
「職業は……?」
「見れば判るでしょう……? 靴磨きです」
京吉はそう言いながら、陽子の方を見た。陽子は結局写されたらしい。そして、二言、三言、占領軍の家族と言葉をかわしたかと思うと、彼女たちのジープに乗った。
「あ、いけねえ!」
今のうちに掴まえなくっちゃと、思わずかけ出そうとしたが、
「どこへ行くんだ……?」
巡査の手はいきなり京吉の腕を掴んだ。
やがて、陽子を乗せたジープは、交番所の横を軽快な響きを立てて走って行った。
鳩
一
留置場では、釈放されて出て行く者を「鳩」という。
陽子はチマ子が予言した通り、一晩留置さ
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