にあつたのだ。しかも、彼はこの手に十二分しか時間を費してゐない。予定の行動だつたのだ。戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と大見得切つた時に、はや彼はこの手を考へてゐたのではなからうか。
「滝に打たれる者は涼しいばかりやおまへん。当人にしてみましたらなかなか辛抱《しんぼう》がいります。」対局場での食事の時間に、ふと彼は呟いたといふ。はや苦戦を自覚してゐたのであらう。九四歩のやうな奇手をもつて戦ふのは、なるほど棋士の本懐にはちがひないだらうが、それだけに滝に打たれる苦痛も味ははねばならなかつたのだ。けれど、それも自業自得だつた、と言つては言ひ過ぎだらうか。変つた手を指してあつと言はせてやらうといふ心に押し出されて、自ら滝壺の中へ飛び込んでしまつたのではなからうか。
変つた将棋は坂田にとつてはもう殆ど宿命的なものだつた。将棋に熱中した余り、学校で習つた字は全部忘れて、一生無学文盲で通して来た。駒の字が読めるほかには、――ある時上京して市電に乗らうとしたが、電車の字が読めぬ、弱つてゐるうちにやつと品川行といふ字だけが、品川の川といふ字が坂田三吉の三を横にした形だつたおかげでそれと判つて、助か
前へ
次へ
全27ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング