ぐつたりとして、駒を投げ出す、――そんなある日、私はその観戦記を読んだのである。
その地下室を出た足でふと立ち寄つた喫茶店へ備へつけてあつた新聞を、何気なく手に取つて見ると、それが出てゐたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあつた。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められてゐるだけといふ奇妙な図面を、私はまるで舐《な》めんばかりにして眺め「雌伏《しふく》十六年、忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ。」といふ見出しの文句を、誇張した言ひ方だとも思はなかつた。私は眼がぱつと明るくなつたやうな気がして、
「坂田はやつたぞ。坂田はやつたぞ。」と声に出して呟《つぶや》き、初めて感動といふものを知つたのである。私は九四歩つきといふ一手のもつ青春に、むしろ恍惚《くわうこつ》としてしまつたのだ。
私のこの時の幸福感は、かつて暗澹《あんたん》たる孤独感を味はつたことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でゐた。もう私は孤独でなかつた。私の将棋の素人であることが、かへつて良かつた。木村はこの九四歩にどう答へるだらうか、九六
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