察しのつく通り、私は病身で、孤独だつた。去年の夏、私はある高架電車の中から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のやうに蠢《うごめ》いてゐるひとびとの寝姿を見て、いきなり胸をつかれてかつての自分のアパート生活を想ひ出したことがあるが、ほんたうにその頃の私の生活は、耳かきですくふほどの希望も感動もない、全く青春に背中を向けたものであつた。おまけに、その背中を悔恨と焦燥の火に、ちよろちよろ焼かれてゐたのである。
 さうした私を僅《わづ》かに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢《てあか》と脂で黝《くろず》んでゐて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか、私のやうな青春を失つた病人だとか、さういふ連中が集まるのにふさはしかつた。私はその中にまじつて、こはれ掛つた椅子にもたれて、アスピリンで微熱を下げながら、自分の運命のやうに窮地に陥《お》ちた王将が、命からがら逃げ出すのを、しよんぼり悲しんでゐたのだつた。冬で、手足がちりちり痛み、水洟をすすりあげてゐると、いやな熱が赤く来て、私はもう
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