るほど変つた手で来るだらうとは予想してゐた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現はれたことのない手を指して来るとは、思ひも掛けなかつた。
「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた。」と、木村はあとで感想を述べてゐるが、恐らくその通りであつたらう。
木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだつた。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新聞の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言つて、この一手の説明だけで一日分を費してゐたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。
いまもあるだらうと思ふが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋|倶楽部《くらぶ》へ、浮かぬ表情で通つてゐた。地下室特有の重く澱《よど》んだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁つて、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で、はやコンコンといやな咳をしなければならなかつたが、その頃私の心をすこしでも慰める場所は、その将棋倶楽部のほかにはなかつた。
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